私が初めて建築科の指導員として赴任したのが,会津技能開発センター(現ポリテクセンター会津)でした。
酒井玄武先生は,私が赴任する数年前には干葉技能開発センター(現ボリテクカレッジ干葉)へ転勤された後でしたが,研修などで数回顔を合わせるうちに,いろいろと教えていただくようになりました。
その会津技能開発センターの当時は,養成訓練で6科ありましたが,時代の流れから塗装科・電気科が能開訓練に転換していき,残りの各科でも能開生を受け入れるようになっていきました。養成訓練生を相手の訓練は,生活指導に振り回される毎日でしたが,能開生の訓練が開始されると大人への訓練で,話し方にも気を配らなければならなくなりました。
しかし,養成訓練時代の東北地区の訓練生の球技大会はそのまま存在していましたので,養成訓練生と能開生との合同の球技大会という形で行われていました。球技大会に参加するという目的もあって,放課後はクラブに追い回されながらも楽しい毎日でした。
訓練のほうは,さらに変化が続き,各科とも選択講座を設け,能開訓練生は選択講座の時間は,自分が所属した科と違う科の選択講座を受講するようになりました。そのようになると人気のある内容の講座には多くの人が集まるようになり,人の集まり方にもアンバランスが生じるようになりました。そんな中,クラブは自然と衰退していくようになり,科の再編が大きく取り上げられるようになってきました。
連日,組合ではどのように再編するのかの話し合いが行われて,建築科・塗装科・木工科の3科を合わせて佳宅サービス科・インテリアデザイン科・室内工芸科に変更することになりました。そして佳宅サービス科には溶接の要素を入れることになったのですが,担当指導員もいなければ,実習場もない,機器等もない状態でした。
まず,最初に担当指導員である正木克典先生が,訓大(現能開大)を卒業してすぐに赴任されてきましたが,前記したように何もなく訓練ができるような状態ではなかったので,とりあえず既存の科で所有している溶接機を借り集めて実施することになりましたが,2台しかないうえに実習場がないので,雨降りの日には学科を行い,天気のいい日には軒先で実習を行うといった状態でした。
一方では,1科を除くすべての実習場のレイアウトの変更と改修工事が行われていて,その中に溶接実習場があるという状態でしたので,その工事が終わらないと溶接の実習場はないといった状態の中で,正木先生は苦心をしながら訓練を続けていらっしゃいました。訓練の空き時間を見つけては,研修に出かけたり,実技の研究をしたりの毎日のようでした。それにもまして,同じ要素をもった人が誰も指導員仲間にいないというのは,専門的なことは誰にも相談もできずたいへんな努力をされていたのだと思います。
能開訓練だけではなく,能開セミナーや事業内援助といった新たに取り組む事業がめじろ押しとなった8年間でした。そんな変化に富んだ訓練を展開しながらも実習場ができあがり,機器等が整備されてくるとそれまでのことが嘘のように整然とした所で訓練ができるようになり,新たに板金の訓練を取り入れていくことになり,住宅サービス科の訓練内容もほぼ完成してきて,軌道に乗ってきたのでした。
その数年後には,訓大から後輩が2年続けて赴任され,後輩の指導をしながら自らも次々と新たな研修に取り組むという非常に努力をされる方であります。現在,ポリテクセンター会津のほうは後輩に任せ,高度ポリテクセンターに転勤され,さらに高度な訓練を行っていらっしゃる,正木先生を次回のランナーとして紹介したいと思います。