村上高等職業訓練校は,昭和43年4月に,建築,木工,左官の事業主と職業訓練指導員の資格を得た方が協力して,岩船郡村上市職業訓練協会という団体を結成し,新潟県の認定を受けて,建築科,木工科,左官科の訓練を開始した。しかし昭和46年頃から高校進学率が上昇し,建築,木工,左官の各事業所に雇用されて,訓練校に入校する生徒が年々減少したので,地域のニーズを把握し,職種を拡大することになり,昭和47年度に漆器科を開設し,伝統産業である村上木彫堆朱の後継者を養成することにした。全国職業訓練校の作品展示会には,昭和55年度から出品し,昭和58年度に初めて労働大臣賞入選を受賞し,平成4年度まで,特選3回,入選7回,10年連続労働大臣賞受賞という輝かしい成績を収めることができたのである。
以下平成5年度に労働大臣賞入選を受賞した手文庫の製作工程について,指導された先生方に記述していただき,皆さんから,ご批評などいただければ,大変ありがたいと思っている。
過去10年間労働大臣賞を受賞し,その度ごとに形状,デザイン,彫刻,塗りとそれぞれに思いをめぐらしてきた。村上木彫堆朱の文様は,山水,花鳥,唐草,花と分かれており,それぞれ彫り師のデザイン力により,さらに
案の幅が広がっている。山水はもちろんのこと,花烏は花,木,草と鳥の組み合わせにより,限りないほどの図案が可能になる。
唐草についても天平時代に神社仏閣で装飾として木彫,金工,染織,その他の中に多く取り入れられ,その唐草の種類も増えている。今回の手文庫に選んだ唐草は,その天平時代に最も多く装飾文様として使われた宝相華(図1)と呼ばれる唐草である。この宝相華はインド,チベット地方にある蔓状の花がデザイン化されたもののようである。牡丹唐草も数多く使われたが,牡丹は別名「富貴」といい,宝相華とともに花の名からくるイメージにより,多く文様として使われてきたのではないかと思う。
村上では唐草に始まり唐草に終わると言われるほど,単純さの中に,品格,力強さ,やさしさ,流れなどが要求される。作品が大きくなればなるほど,大きくなり,はっきり出てくる。花の大きさ,位置を決めるのに時間がかかったが,蔓の流れは,わりに短時間でできた。一気に書くことによって力強さを表現したかったからである。しかし図案は,あくまでも図案であり,すべてではない。完成したときの姿,そして物として役立つことがすべてだと思う。毎年そうであったが,本年も生徒が図案をよく理解し,手作りのおもしろさ,よさを彫刻刀にこめて彫った手文庫は図案を超え,それだけで存在感のあるものであった。技術,物質中心時代から,文化,心の時代に入ろうとしている年にふさわしい作品だったと思う。
図案が決定し,墨入れ(鉛筆で書いた図案をさらに修正して筆で彫刻しやすいよう強弱をつけながら書くこと)をし,さらに図案の保存と彫刻の過程線が消えたときの参考にするために和紙で図案をとり,彫刻する準備ができた。手文庫の身と蓋を2人の生徒に彫ってもらうことにした。身と蓋は一対のものであり,彫刻に関しても,彫り終わった後に,ばらばらでは困るので,引き下げの深さが均一にそろうだろうか,そして彫り上げるのに2ヵ月以上はかかるだろうし,その間注意深く見ていかなければならないのである。
10年連続労働大臣賞入選,特選という先輩のプレッシャーもある中で,彫刻刀(図2-1)は音もなく,木地にくいこんでいく模様は,それほど難しいものではないが,力強さを最も要求される彫刻である。1本の線を,そして一刀一刀に,思いを集中しなければ,力強さが出てこない。彫刻が進むうちに,生徒の1人が床に座ぶとんをしいて彫刻を始めた。机の上では,手文庫は大きすぎて彫りにくく,力が入らないらしい。床に立てたり,ひざに挟んだり,相当苦労をしていることが,休み時間の大半を作品を眺めている姿から感じとることができた。模様の部分が彫り終わり,引き下げに入る頃,身と蓋を合わせて,続き模様部分の引き下げの深さを互いに確認し,時々身と蓋を合わせながら引き下げが進められていった。深さ4mm,2c㎡程度の引き下げをするのに30分を要し,彫刻刀の折れる回数も多くなり,研いでいる時間のほうが多くなったが,6月に入って引き下げの見通しがついてきた。引き下げ,花,葉の肉取りと進み,地紋(図3)を彫る身と蓋を合わせてみたが,それほど浅く感じなかった。肉取りが,全体を通してみると浅いというより貧弱に見えたのである。花と葉の肉取りをやりなおし,花の実の部分に地紋を彫るところまできた。
地紋は引き下げた部分に多く彫られる幾何学的な木彫模様である16種類を基本として,その人のアレンジにより,それ以上の種類が可能となった。まだ彫っていない2人の生徒に地紋を彫ってもらうことにした。地紋を練習して1年たっているが,2人ともなかなか彫ろうとしない。「練習板で練習させてください」と言い出し,練習板に彫っては手文庫に地紋を彫るという日が1ヵ月以上も続き,地紋が完成したのは,夏休みも間近になった頃であった。塗装の教室に手文庫を持っていくことができ,彫師としては,あと毛彫りだけになった。
12月の中旬頃,手文庫のことを忘れた頃となって,毛彫りをすることになった。2学期の終業式まで,間に合わせてくれと言われた。毛彫りは問題ないが,引き下げ部分に「石目打ち」という,細かい点を針の先のようなもので無数に打たなければならないことになり,機械を使い,交代で打っても,相当時間がかかることになり,3台の機械を使い交代で打ち,1週間後に毛彫りが終わり,すべて完成した姿を見たのは,2学期の終業式の日であった。
昨年の作品(黒と朱に塗り分けた花瓶と花台)がそうであったように,今年の作品も彫り上がった時点でそれを見ながら塗りの構想を練る。手文庫としては,村上では最も大きいものに属し,しかも胴張りである。模様は大柄であるが,引き下げ部分が多い場合,模様部分を引き下げ部分の調和を考えれば,やはり単色がよく,朱が最も効果的である。朱でいくことにした。手文庫の内側は何がよいか,村上では箱物の内側は黒が一般的である。しかし今回は新しい技術にチャレンジしてみてはどうかということで,あまり村上ではなじみのない梨地をやってみることにした。梨地とは,0.5~2mm角の金を全面に蒔き,漆を塗って研ぎ上げたものである。もちろん訓練校では初めてであるし,私自身なつめ香合などでは経験はあるが,いずれにしても小物である。蒔く面積が大きいだけに多少の不安があるが,これで塗りの構想はできた。
作品展まで4ヵ月,1ヵ月ごとの工程を決める。失敗するとそれだけ時間がなくなる。問題は11月中旬頃の中塗り,上塗りであるが,まずは,こくそ,このできによって作品の塗り上がり,品格が決まる。花と葉のぺーパーがけを説明し,生徒にまかした。ふだんは茶托など小物が多い。しかも箱物は職人がやっても多少の緊張感があるもので,生徒の心理状態が無言の中に伝わってくる。ぺ一パーかけが終わり,すり込み,錆付け,研ぎと中塗りまでに2ヵ月過ぎた。これまでに大きな失敗はない。生徒の指先も力強く滑らかに動くようになってきた。しかしここまででやっと半分が終わったところで,これからが勝負だ。中塗りが終わり,上塗りの段階に入った。
1回目の上塗りが始まった。片手で1時間以上も文庫の蓋を塗り終わるまで持ち続けなければならない。漆を均一に塗るように指示し,生徒の1人にまかせ,上塗りはほこりを嫌うので,本人以外は部屋に入れない。翌朝,塗り上がりが気になり,訓練校に作品を見に来る生徒もいる。あまり慎重に塗りすぎたためか,漆が薄いところもあり,2度目は私も上塗り部屋に入り,指示を与えたので,うまくいったようだ。艶消しまで1週間,その間に内側の梨地を仕上げることにした。漆を塗り,その上に粉筒で金を蒔いていく。1力所に固まらないように,もっと高い位置から蒔くようにと,注意しながら金を蒔き終えたのは,1時間半後であった。漆の乾燥を待って,梨地流れを塗る。後は研いで磨けば梨地は完成する。炭で円を描くようにして慎重に研ぐように教えながら様子をみる。「先生,ここにへこみがあります」。見ると底の一部(5mm程度)がへこんでいる。中塗り研ぎが十分でなかったのか,気がっかないうちに何か落としたのか,悔やんでいる時間はない,もう一度やり直しだ。10日後に2度目の梨地は完成した。表の朱の艶消しをし,彫り師のところへ持っていく。毛彫り,そして最後の上すり込みを行い,2学期の終業式の前日までに完成した。
終業式には漆器科の生徒一同の前に手文庫が置かれ,記念写真をとるなど,1年間努力したそれぞれの思いを胸に手文庫を見つめていた。