1991年3月14日,この日まで日本を出たことがない私は,タイ王国へ出発した。海外に派遣された経験のある方々は,そのときの私の心中を察することができることと思う。しかし,これから海外へ派遣される方々は,さまざまな不安などを抱えて出ていかなければならないのである。
ある人は本屋へ走っていきその国の情報収集にいそしみ,またある人は図書館へと,そのさまざまな不安をできるだけ軽くするために走り回ることであろう。しかしそのようにして集めた情報には一般的なこと,例えば,おいしいレストランや主な観光地の紹介,その国の簡単な紹介などのような明るい記事がほとんどで,地方にいるとその陰部については掲載されていないか,掲載されていたとしてもごくわずかである。
また事業団の報文誌などは技術移転報告などがほとんどで,その苦労物話はあまり紹介されていない。私は,この部分の報告もまた重要なことではないかと思って筆をとった。誌面に限りがあるので全部は紹介はできないが,いくつかの分野に絞って記述する。
断っておくがこれはあくまでも私の場合であり,これらの記事が,読者の皆様が同じようなことにであったからといって同じようにすれば解決できるという保証はない。その瞬間,私を取り巻いていた環境を分析し,私なりに臨機応変に対応した事例の紹介である。しかしそのときの勘所は役に立つと思うので,それは参考にしてもよいのではないかと思う。
ここで私の派遣当時の家族構成を紹介しておく。
上記のとおり私の家族構成の状況が出国時,滞在時,帰国時と変わっている。今思えば,よくそのような状況で行けたなと思う。そのリスクはほとんど妻が肩代わりしたようなものである。リスクを私の目からみて分析してみると図のようになる(妻の目から見ると多分違うだろう)。
図にある①から⑥までをいかにして解決していったか順に述べる。
幸い,まだ子どもが小さかったので日本人学校やインターナショナルスクールなどについて心配することはなかった。しかし子どもは子ども同士で遊びたいのである。2ヵ月くらい様子を見て評判の高い幼稚園へ子どもと一緒に見学にいったところ,娘はすぐ親元を離れ現地の子どもたちの中へ消えていった。子どもの世界には言葉はあまり必要ないのかもしれないと思った。親が思っている以上に子どもはたくましいものである。
娘には行きたいかどうか確認し,幼稚園へ行かせることにした。入所に当たり手続きをしなければならないのだが,園長先生はあいにく英語がわからない。私はまだタイ語がよくわからない。しかたなく秘書に通訳を頼んで手続きは無事終了した。しかし親にとっての大きな問題はこれからであった。幼稚園にはお便り手帳があり,そこには,一日の娘の様子や連絡事項がタイ語で書いてあるのである。これを毎日読むのはたいへんである。この翻訳を秘書に頼むのも気が引けるので,メイドやドライバーに読んでもらい,われわれが知っているタイ語に翻訳して話してもらって理解していった。
また幼稚園へ娘を迎えにいくと先生と立ち話をすることが多々あった。タイ人は,話をするのが大好きである。相手が少しでもタイ語が話せると思うと,途端にいままでは一語一語丁寧に話していたのがものすごいスピードで話し出すのである。しかも長い。話が終わるとこちらの頭の中は飽和状態で,ふらふらである。この繰り返しが2年間の生活において非常にプラスになったことは間違いないと思っている。言語習得のこつは忍耐強く聞いて理解しようとする意志と根気であると思う。
タイ人は,非常に温厚な人間であるらしい。夜の繁華街にいっても酔っぱらいの喧嘩などは1回もみたことがなかった。たまに喧嘩らしいものをみても口喧嘩である。夜になると,よく外へ食事にいくのだが,人に囲まれたり,脅されたりした経験は1回もなかった。幸い私の家では物を盗まれるということはなかったのだが,数人のUBISD(ウボン職業訓練センターの略)のスタッフや日本人専門家のところが泥棒に入られたりしたことはあった。しかし強盗事件は,ウボンでは,私の身の回りで,1件もなかった。
例外として1992年5月に大規模な暴動が起き,首都バンコクで市民と軍が衝突する事件が起きた。この国で起こるほとんどのクーデターは,無血クーデターで終わるのが通説だが,今回は流血事件まで進んで,国王が仲裁に入るという異例の事態であった。また南部では,駅の構内で爆弾が爆発して多数の死者がでた。このような事件があったにもかかわらず,まだこのように生きていることはまだ運がいいのだろうと真剣に思っている。タイに派遣されたウボンプロジェクトの専門家全員が無事帰国できたことからわかるように,この国は治安はよい方なのである。しかし他の国でこれが通用するかというと通用しないのである。ゆえに治安の件には一般論は通用しないのである。
治安の件についてまとめると,このウボンは,比較的安全だったので数人の専門家でガードマンを夜だけ雇って定期的に見回りをしてもらったくらいで,そのほかは,なにもしていない。これから海外へ行かれる専門家の皆さんは,それぞれその国の治安状況を調べその地域にあったガードを施すべきであると思う。
タイという国は食べ物が非常に豊富な国である。暑い国であるので,果物などが豊富で1年中,さまざまな果物を食べることができる。例えばバナナ,パイナップルなどは,日本国内で食べるより何倍もおいしい。また,果物の王様のドリアンなどは日本国内では1個約1万円くらいの値札を記憶しているが,ここでは,旬の時期で約450円くらいで食べることができる。
ここにきていままで食べたことのない果物を勇気をもってたくさん食べてきた。最初は,慣れていないせいもあってその果物本来の味を楽しむこともできなかったのであるが,土地に慣れてくるとそれぞれの味を味わうことができた。旅行などの短期滞在では,その土地の本当の味は理解できないのではないだろうか? また,食文化を比較しながら料理をいただくと,また違った味わい方ができるものである。
例えば,タイ米といえば日本ではあまり評判がよくなく日本人は敬遠しがちな米である。なぜ評判が良くなかったかその理由を考えてみると,まず臭いがする。そして日本米に比べて淡白な味であり,甘みがなく,粘りけが少ないことであろう。しかしこれは日本人が間違った食べ方をしているので“タイ米はまずい”という評判がたつのである。日本人にあっているタイ米の食べ方は,焼きめし(カオパット)が一番あうようである。しかし毎日焼きめしを食べるわけにはいかない。
そこでそのほかの食べ方をここで紹介すると,まず,お粥として食べる方法である。タイ米は,粘りけが非常に少ないので水に馴染みやすくお粥には日本米より向いているように思える。また味が淡泊なので味付けが簡単であるから,お好みの味にアレンジできる利点もある。また別な食べ方を紹介すると,俗にいう汁かけご飯である。現地の屋台では,ご飯の上に肉をのせ汁をかけて食べるし,また,タイ式カレーをかけて食べたりと上にのせる具はお好みにあわせてなんでもよいのである。
ご飯を食べるときには,スプーンとフォークを使って食べる。なぜならタイ米は粘りけがないのでぽろぽろ箸からこぼれるので,箸ではなくスプーンとフォークを使用するのである。ただし中華系の屋台や食堂ではこれに限らず箸を使って食べる。ご飯をよそうときも日本と違ってしゃもじは使用しないでスプーンの大きいものでご飯をよそうのである。
タイの料理はすべて辛いという印象があるが,それは間違いである。現地の人の中には辛いのが苦手な人もいるのであるから,辛くなくて,おいしい料理はたくさんある。また珍しい料理もたくさんある。いくつか紹介すると,まず雀蜂の油炒め,バッタの空揚げ,たがめの姿煮,かぶと蟹の雌をゆでてその中の卵を食べるものや,蛙の串焼き,ありの卵の卵焼きやサラダなどがある。これらはすべて私が食べたことのあるもので,味の方はそれぞれに特徴があり,どれも食べられないものではない。
食べ物に関して結論をいうと,先入観をもって食べたらどんなに安全なおいしい食べ物でもおいしく食べられないし,ひどいときは下痢をすることになるので,心構えとしてまず第1にここは日本ではないことを再度確認すること,第2にマイナスの先入観を捨てる。この2つをとりあえず頭の中において食べればある程度おいしく食べることができると思う。
次に病院について述べる。現地に赴任したら絶対調べなければならないことの1つである。私のいたウボンという町は比較的大きな町であったので,私立の病院がいくつかあり,また公立の24時間体制の県立中央病院もあった。タイの医者は,ほとんどが公務員なので,勤務時間は大きい病院で勤務し,勤務時間以外は,自分のクリニックにいき診察,治療してさらにお金を稼ぐのである。つまり,ここでは,勤務時間以外に他の仕事をして稼いでもいいのである。
首都バンコクにある病院と地方都市の病院を比較すると,まず設備の点で首都の病院の方がはるかに優れている。また優秀な医者も首都に集まっているらしい。衛生面にしても首都の病院の方が勝っている。私の家族も赴任期間中は,病院に何回もお世話になった。子どもが熱を出したり,風邪をひいたり,下痢したり,また自分自身も何回か風邪をひいて薬をもらいにいった。このようなときは,地方の病院でよかったのだが,私が運悪く盲腸になり手術することになった。
たまたまそのときはバンコクで会議があったので,そのついでにバンコクの大きな総合病院で診察してもらったら盲腸ということがわかり,その日のうちに手術となったのである。その病院には日本語が話せる医者がいて病状の細かいところまで日本語で話すことができ,不安はなかった。またその病院は新しかったので非常にきれいで衛生的であった。私が入院した部屋は個室で応接用のテーブルがあり冷蔵庫,テレビ,シャワー,トイレ付きで広い部屋であったので,ホテルを引き払って家族をその部屋に泊めて私が退院するまでそこで4日間過ごしたのである。もしウボンの病院であったならば,こうはいかなかっただろうと思う。
首都の大きな病院には日本語が話せる医者が数十人いるので,どの病院にいるのか,どの病院が評判がいいのか情報はできるだけ集めておくべきであろう。地方の病院では,日本語の話せる人はいないと思っていい。しかし英語の話せる医者はいるので英語の話せる医者を見つけて,顔見知りになることを勧める。問題は病人本人が自分の症状を英語で伝えることができるのか,また医者のいっていることが理解できるかどうかである。ウボンでは英語の得意でない医者もいたので秘書も連れて病院へ行き,秘書が医者の診察結果などをタイ語で聞いて英語で私に話すということもしていた。ゆえに日頃英語に慣れておくことが必要になってくる。自分の耳を鍛えて,語彙を増やす努力が重要である。備えあれば憂いなしである。
海外へ出たい人は今からでも英語を勉強すべきである。健康なときは,さほど重要ではないのだが,いざ病気になると病院や医者の問題,そして言葉の問題は非常に重要になってくる。病気という問題は急に起こるので,早急な対応ができるように備えておかなければならない。またいつでも現金が用意できるようにしておく必要がある。病院によっては,お金を先に払わないと治療してくれない所もあるので,その病院がディポジット制なのかどうかの情報収集も重要である。
プロジェクトの仕事でいくと絶対に特定の日本人と仕事をしなければならないし,特定の日本人とつきあわなければならないのである。当たり前のことである。しかし,プロジェクトで仕事をしていく中で一番神経を使うのが仕事より人づきあいであると思う。私は,タイに赴任する前に過去,プロジェクトに参加したことのある先輩方からいろいろ体験談を聞いた。またこれから行くタイのプロジェクトのことも耳に入ってきた。その体験談や噂のほとんどが人間関係であった。仕事の進め方とか,カウンターパートとの関係などは少しだけであった。
幸い私がいたウボンプロジェクトの中ではさほど大きな人間関係のトラブルはなく無事任期を全うできた。そのノウハウをここで紹介する。まず赴任したころは,勤務時間以外は,プロジェクトに参加している日本人の人たちとはできるだけつきあわず,わざとタイ人しかいないテニススクールに4ヵ月通ってひたすらタイ人とともに汗をかいた。その理由は,タイ人に早く慣れること,タイ語に耳が早く慣れること,地理に詳しくなることなどである。タイ人の皆さんは非常に親切に私にテニスを教えて,また初心者にもかかわらずゲームにいれてくれたり,タイ語を教えてくれたり,おいしい屋台を教えてくれたりしてくれた。そのかいあって,4ヵ月くらいで生活に困らないくらいのタイ語が話せるようになり,友達もたくさんできた。
また生活の面でも日本人にべったりとくっついて生活しなかったので,お互いのプライベートタイムを尊重できた。これが2年間日本人間でのトラブルを起こさなかった理由だと思う。もちろん家族同士のトラブルもなかった。
人間関係をうまく保つ一番の秘訣は“つかず,離れず”であると思う。プロジェクトは狭い日本社会である。なにも問題が起きなければ問題がないのだが,いったん問題が起きてしまうと仕事をしている本人はもちろん家族までその問題が派生するので,人間関係は仕事以上に気を配る必要がある。また問題が生じたときには,早いうちに問題解決をすべきである。時間がたてばたつほど複雑さを増していくのである。最悪の場合,人間関係でプロジェクトが失敗することもある。
また日本人の人間関係のほかにカウンターパートとの人間関係も重要である。お互いに育った環境や文化も違う者同士が仕事をするのであるから,信頼関係が重要であることはいうまでもない。しかし,もし人間関係がおかしくなったら,自分一人で解決しようとせず,リーダーなどと相談しながら解決することが一番であると思う。
また,どのようにして関係修復を図っていたか,その記録も必要である。リーダーは相手国のセンター長とそれなりに話し合うので,そのときその記録や,報告事項などをもとにして対策を講じてくれるのである。私の場合は,リーダーのすばやい対応のお陰でカウンターパートとの人間関係の問題は解決できた。その問題が解決するまでリーダーと頻繁にミーティングをして指示を仰ぎ,従い,経過を記録して,必要なときにいつでも提出できるようにしておいたので,リーダーがセンター長や労働局長と会議するとき,その資料をもとに解決策を練ってくれたので6ヵ月くらいで解決できた。
カウンターパートとのトラブルは何とか解決できるが日本人同士のトラブルは非常に難しい。プロジェクトが成功するしないは半分以上は人間関係がうまくいくかいかないかで決まると私は思っている。チームワークを大切に,つかず,離れずを守ってリーダーの舵取りがうまければ,きっとうまくいくと思う。
人間関係の基本はコミュニケーションである。必要以上にコミュニケーションをとる必要もないし適度にとる必要もある。つまりこれはケースバイケースである。その場に応じて適当にコミュニケーションをとるのがよい。
技術移転の進展と機材の問題は非常に密接な関係がある。例えばウボンプロジェクトの場合,パーソナルコンピュータを無償機材で導入するときに問題になったのが,日本電気のPC-9801シリーズを購入するべきか,または国際標準マシンであるIBMまたはIBMコンパチブルマシン(以後IBMコンパチという)を購入するかであった。
私個人の都合にあわせると国産機の方が何かと都合がよい。なぜならマシンの扱いが慣れているし,また動く手持ちのソフトも非常に多いからである。しかしプロジェクトが終わってタイサイドでそのマシンのメンテナンスを考えると国産機よりIBMコンパチの方が保守整備しやすいだろうと思い、IBMコンパチを現地で購入することにした。
IBMコンパチは,国産機と勝手が違い非常に難しいマシンに感じられた。なぜなら国産機はふたを開けて中をいじることは滅多にないが,IBMコンパチは中を容易にいじれるし,また拡張が非常にやりやすい構造になっている。その反面,その環境設定が難しく,当然のことながらマニュアルはすべて英語またはタイ語であり,読むのに時間がかかったがこれらの設定がうまくいけば後はスムーズに機能した。
タイ語バージョンのワープロソフトをインストールし,またタイ語バージョンのロータス123やdBASEなどをインストールした。ロータスやdBASEは何とか教えることはできたが,ワープロは表示される文字がすべてタイ語なので,秘書にタイ語を英語に訳してもらいながら操作法を教えていった。
そのほかワンボードマイコンの技術移転にしても英語のマニュアルではなかったので,日本語のマニュアルを英語に訳し,秘書を通してさらにタイ語に訳して技術移転を進めた。ところが,事故でそのボードが動かなくなったのである。日本製であったのでその代わりの製品がくるまでその要素の技術移転は約6ヵ月間停止せざるを得なかった。日本では部品は2,3日もすれば手に入るが,海外では3ヵ月または6ヵ月サイクルで待たなければいけないのである。このように,時間的ロスは日本で考えている以上に大きいのである。機材を手配して1ヵ月以内に入手できるようにしてくれれば非常にありがたいのにと何回も思った。これが帰国間近であればなおさらである。
技術移転をするときある先輩にいいことわざをならったのでここで披露すると3Aである。あわてず,あせらず,あきらめずである。赴任時はあまりよくわからなかったが,今は,よくわかる。これから赴任される皆さんもこの3Aを忘れずに仕事をすればいらいらも半減間違いなしであろう。
機材の件で最後につけ加えると,短期専門家の輸送機材である。短期専門家は,現地に着いているけれど,機材が着いていないことは珍しくないことである。せっかく短期専門家がきてもその機材が届いていないので要求された訓練が展開できないし,また短期専門家が帰国したあと機材が届くということもあった。機材が届いても約半年前もしくは1年前の要求に基づく機材なので,カウンターパートからは,いらないとか,受け取らないとか,他のものとかえてくれとかいろいろクレームがきたので,機材要求と機材取得の期間はできるだけ縮小する必要がある。機材は専門家の到着の前に届いていることが絶対望ましいと思う。
海外へ赴任するとき,帰国するときは,荷物の問題がある。赴任するときよりも帰国するときの方が数年間そこで生活していたので荷物は増える。その荷物を業者に頼んでもらうのが一番簡単で安全な方法であるが,しかしその国の輸送機関を使って送るということがその国を知るということにつながるのではないかと思い,私はあえてその便利な方法を使わず郵便システムを使用した。まずそのシステムを使用するときに料金体系や輸送体系を知ることが必要であるが,これらは近くの郵便局に行ってその資料をもらえばすむことであるが,その資料はすべてタイ語で書いてありタイ語の数字が書いてある。ゆえに英語の訳がついたものか,英語に訳してもらう必要がある。しかしこのシステムを使用すると業者に頼むよりはるかに安くできるのであるが,その荷物が無事に届く保証はない。
しかし何回も郵便局に行くとそこで顔見知りになって知り合いが増えるし,また違う郵便局で送ると料金が異なったり,送り状の書き方が違ったりといろいろ対応が違うのには驚いた。もし日本であればめくじらたてて怒るかもしれないが,ここはタイであるということを十分認識していると腹も立たないしむしろほのぼのした感じさえ感じられた。そして物が無事に届いたという知らせを聞くとなぜか得した気分になれた。
また日本に送れない物は庭先でバザーを開いて家具や雑貨物を非常に安く買ってもらったり,おもちゃは近所の子どもたちにプレゼントしたり,またそのときに帰国の挨拶をしたりして近所のみなさんとさらに交流を深めた。バザーを行うということは相手にただで物を配るより失礼でないし,むしろ礼を尽くしたいいことであると思う。そのようにして荷物をできるだけ減らせるし,また世話になった人に挨拶できたし,喜ばれたし,これは成功であったと思う。
皆さんも少し苦労すればまた違った体験ができるので,ぜひ便利で楽な方法をとらずその国の輸送システムを利用して少し冒険をされることを勧める。しかし時々荷物が届かなかったり,なくなったりするし,またその補償制度を十分活用できないので高価で大事な物はこのシステムを使用することは避けたほうがよい。
帰国前後で一番気になるのがどこへ転勤できるのか,また宿舎の住所はどこかなどである。私の場合は帰国して2週間しか猶予期間はなく,その期間で運送会社を探したり,本部やJICAに報告にいったり,前の職場に挨拶にいったり役場に手統きにいったりと,やることがたくさんあるのである。引っ越しが終わっても荷ほどきして片づけたり,子どもの学校の手続きをしたりやることがたくさんある。健康体であればいいのだが,子どもを身ごもっている体の妻には無理はさせられないし,できない。もし赴任地が6ヵ月前にわかっていたら,安い運送会社を探すことができるだろうし,また猶予期間が2週間以上あれば家族に負担をかけずにすむのにと思った。
いずれにしろ赴任地をできるだけ早く決定して知らせてほしい。また赴任地との連絡も業務の一環として認めてほしいのである。調整員によっては,認める人と,認めない人といるので事業団本部とJICAの間で調整してもらいたい。
最後に,この報告書をまとめながら2年前初めて海外へ出たときのことや任期中のことやウボンの町並みが走馬燈のように頭の中をよぎる。またときどきウボンにいるときの夢を見る。夢の後はまたウボンにいってみたいと強く思うし,海外へ出るときはもっと積極的にいこうとか,いろいろ考えが浮かぶ。ただ海外に行って数年間過ごすのではなく何か成果を残さなければいけないし,また刺激を受けて自分を高めなければならないと思った。
違う文化に触れることは,いろいろな面でプラスになると思うし,それは人それぞれ受けとめ方が違うさまざまな感想があるだろう。私は任期中に受けた感動や感激,悔しさ等をバネにして今大学院で勉強中である。もちろん質の高い専門家を目指して勉強している。なぜなら薄っぺらな知識はすぐ底をつくことがわかり,また,勉強不足を痛感し自分が描いていた成果の半分もできなかったのが非常に悔しくてそこで勉強をすることを決心した。
海外技術移転報告はこれで終わりにして次回は大学院で研究している成果を年1回を目標に投稿しようと計画している。このように宣言しておけばやらざるを得ない状況に自分を置けるので,あえてこの誌面を借りて計画を発表する。
ここまでやってこれたのもこのチャンスを与えてくれた現インドネシアOVTA所長の坂本宏氏のお陰である。深く感謝申しあげる。また進学を承諾してくれたポリテクカレッジ福山,ポリテクカレッジ北九州の職場の皆様にも深く感謝申しあげます。