ヒマラヤ山中の小さな村に水車を設置し,地場産業を育成し,教育や生活様式を向上させる。それが私たちのグループ「ランタンプラン」がここ数年取り組んできた活動である。
1949年,初めてこの小さな村を訪れたイギリスの探検家ティルマンは,「ローインパクトの法則」(自分がその地を訪れたばかりに与える影響力を最小限にとどめる)を実践した。我々の活動もまた,伝統的な社会習慣や自然環境,景観に大きな変化を与えてはいけない。開発と環境保全を調和させる必要がある。この法則は基本である。開発が優先すると伝統的な社会習慣や自然環境,景観が破壊されてしまう。環境保全にあまりにも細心になると生活向上等の試行に「石橋を叩いて渡らず」の結果になってしまい,その狭く限られた国家の経済,教育,医療,生活様式等すべての面で他の地域,国家より大きく遅れを取り,ますます自立や自助努力を困難にしてしまうようである。それは民間レベルおよび国家レベルの双方の「援助」にいえることである。地域,国家いずれの場合も対象とする人たちとその環境をどこまで把握できて,何を援助すればよいのか? 例えば,私たちの職業能力開発の分野では,何を技術移転すべきか? その適正技術のあり方を吟味することなく「援助」という言葉は成立しないのではないだろうか。
常日頃,ボランティアとは「分かち合うもの」(give and take)だと自分なりの定義を持っている。例えば,どんな技術やモノを分ければ,それが受け入れられ,定着し,普及するのかを研究し試行する。その見返りとして,途上国の文化,習慣,智恵に接して,「目からウロコが落ちる」ようなことが多くある。これまでの3年間のJICA(国際協力事業団)派遣専門家としての政府間レベルの援助とその後の3年間における民間レベルでの経験を対比させ,「援助」とは何か? ボランティアとは何か? どうあるべきか? 今年度の活動中に体験しながら思い浮かんだことを整理しここに紹介したい。
1年ぶりに訪れた首都カトマンズは昨年と大差なく,ただただ排気ガスと土ぼこりに悩まされ,大気汚染がより深刻な問題になっているようである。
1988年12月,初めてこの地を踏んだとき,飛行場の滑走路を歩きながら白く雄大なヒマラヤの出迎えを受けた。そのヒマラヤもカトマンズ盆地にひしめくトラック,バス,タクシーの排気ガスとほこりのため年に数回しか見えないありさまだという。人と車が増え,ある程度便利な生活,物の豊かな生活のために大きな犠牲を払っている。人間の営みとはいったい何なのだろう。人も地域も国も時とともによりよく発展するものだと疑わずに生きてきたことに,いまさらながら気づいた。しかし,今のカトマンズが私の知る7年前より改善したとは思えない。ネパールはよく「神々が座すヒマラヤ」と呼ばれる。そのヒマラヤの懐にあるネパールへ消費社会,貨幣主義社会を無理矢理持ち込んだ外国人たちがいるのか,はたまた自ら望んだ進行途中の醜い姿なのか? 少なくとも,7年前のカトマンズより人と物と大気汚染は見違えるほど増えた。まさに開発のための環境破壊の実態であろう。ここ近年カトマンズに来るたびに今自分たちの進めているボランテイア活動が「よいことなのだろうか?」と疑問を抱いてしまう。
NGOを非政府開発援助と訳すならまさしく正統派のグループに出会った。
グループのリーダーMr. S・Pは長い間ネパール工業省家内工業局の実施する訓練施設で手すき紙技術を全国に普及させ定着させようと日本の援助を受けた後も努力し続けている公務員である。しかし,不安定な政府の職業訓練行政に怒りさえ覚え,現在は民間のボランティア団体を設立し,活動している。ネバールの貧しい地方では生活苦のために若い娘たちがインドへ出稼ぎに行く。仕事はやはり売春が多く,国の大きな社会問題の1つになっていると彼は言う。彼らのグループはそういった問題に対して,女性たちのための職業訓練を私的に運営している。
グループの母体はエコヒマールという紙や布製品を製造販売する小さな企業で,昨年より約30名の地方出身の女性をカトマンズに寄宿させ,午前10時から午後5時までOJT方式で編み物,織物,縫い物等の技術指導を行い,5時からの1時間はネパール語の読み書き,計算などの教育をも実施している。
家内工業局の実施する形式的,制度的な堅苦しい職業訓練とは異なり,訓練生の受け入れは空きがあればいつでも可能であり,技術の移転はインストラクターはもとより,先輩から後輩へと移転されている。このグループの大きな特徴は,半年間の訓練期間を終えた者が出身地に帰ると,エコヒマールの地方支所より原料,材料がその地まで届けられ,彼女たちの作った製品はカトマンズに運ばれ,主に海外の業者に引き取られていくという需要と供給のバランスの上に成り立っていることである。
エコヒマールの経営者には製品売買の収入が入り,彼女たちには半年間の間,月1000ルピー(約2000円)の給料,技術,基礎教育そして出身地に新たな産業を導入し村落開発の一助となり得るという双方のメリットがある。
家内工業局などの政府ベースでの訓練行政に不足している訓練終了後のアフターケアがこのグループには確立されている。グループはファッションショー等にも積極的に参加し,常に売れる商品開発を試みている。強いてこのグループの弱点をあげるなら,デザイナーの力量,感覚にすべての活動の生死がかかっていることである。しかし,このグループはすでに,麦わら,バナナ,大麻など多くの植物繊維から糸を作り,布を織って製品化してきた。今後もこのグループが他のNGOグループのモデルになり,リーダーシップをとっていくように成長することを祈るばかりである。
ランタンプランが援助活動を行っているランタン村は,ネパール・ヒマラヤの中央北部,ランタン谷に位置する戸数約80,人口500人ほどの山村である。首都カトマンズからの道のりは,初日ジープで8時間,そこから歩いて3日間を要する。住民は古い時代にヒマラヤを越えてやってきたチベット系の人々で,標高3500~5000mという厳しい自然条件のもとで,高地草原でのヤクという家畜の放牧や,谷筋の畑での大麦や蕎麦,ジャガイモなどの栽培を行っている。彼らは,このような半農半牧の零細な寒冷地農業を基盤として,伝統的なチベット族の生活様式を守りながら何百年もこの谷で生活してきた。
最近では,毎年村の人口の50倍ものトレッカーがこの谷を訪れるようになった。トレッカーたちは燃料持参が原則だが,現実にはかなりの現地調達した薪を消費している。また,彼らの荷物を運ぶポーターたちが消費する薪の量は,その何倍にもなるだろう。これが,薪を唯一の熱エネルギーとしてきた住民の伝統的な生活や環境を脅かす重大な問題となっている。早急に薪に代わる代替エネルギーを導入して薪の消費量を減らさなければ,村自体の存続すら危ぶまれるところまで問題は深刻化している。
ランタンプランでは,この問題が深刻化してきた1985年当時,住民のこのような訴えを受けて,村人による代替エネルギー利用の試みを援助することを目的に,同地で人文科学的調査を行ってきた日本人研究者が中心となり発足に至った。現在はさまざまな人々が集まり,約50人の会員により活動が支えられている。私もまた,3年間のJICA派遣でのネパールにおける家内工業育成(金属加工)の経験をもとに微力ながらもここ3年間ほど活動のお手伝いに参加している。
今年度の活動として,ランタン村に水車を設置し,粉引きや油絞り等の機械を導入し,さらに3kWの発電機によって電気を持ち込もうとしている。私個人にとって,日本という消費社会からきた者が,この地の伝統的な文化や生活様式に変化を与えることが結果的によいことなのかどうか,大きな疑問を残しながらの支援であった。しかし,この村の人々と語らい,滞在している間に自分たちの活動が決して悪いものではないという結論に達した。
この村の大人たちの多くは,チベット語にて生活し,国語であるネパール語でさえ話せない。私の国日本では,今や情報・通信と業種が急成長し,伝統的な技能,芸術は廃れ,経済構造は資源を消費(浪費)することによって成立している社会である。
この地の人々が農業のために費やす仕事率は,高々200ワット程度であり,他に利用できるエネルギーといえば,牛・馬のエネルギー程度である。かたや私たちの生活は車,電車をはじめ,火力,水力,原子力による電気等1人当たりいかほどになろうか?
この対比は,ランタン村住民の1日のエネルギーより私たちが髪を乾かすヘアードライヤーのほうが大きいということになる。
ランタン村の住民だけが世界の動き,否,首都カトマンズの様子さえも知らず,時代から取り残されてよいはずはない。海外,特に先進国と呼ばれる消費国家から村に訪れる人々(トレッカー)の期待する非文明的な生活を目にすることは少なくなるかもしれないが,村人がより豊かに自らの生活を向上させることはとても大切なことではなかろうか。
今年の活動で,公民館を建て終わった。そして,10月中には水車を設置したパワーハウスも完成し,初めて村に電気がともるはずである。これからの計画は,公民館とパワーハウスを中心に進められる。その骨子は,公民館にて女性たちを集めエコヒマール等の協力を得て夜間の内職指導,パワーハウスの維持管理のための若い男性の人材育成。夜間およびトレッキングシーズンオフにおける大人たちの識字教室開設(ネパール語・英語を個人差に合わせて教育する)。カトマンズおよびランタンプランより人を派遣して,環境保全,公衆衛生,ホテル運営などのセミナー開設である。私たちが援助したものが,この村に新しい産業を導入し定着させ発展させることも決して夢ではないだろう。ある村人はネパール語を語すようになり,ある者は英語までも話す。そのことによってラジオやトレッカーより多くの知識,情報を入手し自らの生活を向上させていくだろう。
今年の活動には大阪短大の昨年度生産技術科卒業生2名とともに参加した。ネパールから帰ってちょうど1週間後,我が家を訪ねてくれた2人に感想をまとめてもらったので紹介したい。
杉本盛彦君:「ボランティアの難しさが少しわかったと思う。実際,現場に行っても何をしたらいいのか,何をしたら相手に喜ばれるか,一方的な押しつけではなく,相手のことをよく考えてから行動しないといけない。やはりボランティアは難しい。
山に登って思ったのは,子どもがよく働くことだ。小さな子どもでも,いっぱいの荷物を担いで山を登っている。働くために学校に行けない子どももいる。日本では考えられないことかもしれない。しかし,学校に行かなければいけないという考えは日本人のものであって,実際山の中では,言葉だけでも生活できると思う。でも,世界から取り残されるという点では,やはり識字は大切なことだと思うが……。
自分もこれから教職に就くための勉強を始めようと思うが,ネパールでの経験を生かしつつ頑張っていきたい」。
向井博之君:「自分は,日本にいて,学歴がすべてのような気がしていた。一流の大学を出て,一流の企業に就職する人が偉い,賢いという考え方があると思う。中学時代に勉強もしないで就職する者を馬鹿だと思う人もいるようだ。勉強のできる量で人間を判断する社会があるようだ。日本にいて,20歳を過ぎて将来を考えると,やはり四大を出ている人のほうが実際就職に強いしついつい彼らのほうが偉いと思ってしまうのも確かだ。しかし,今回出会ったランタン村の若者たちはもっとすごい。自分と同年代の人たちが自分たちの生活をよくするために必死に頑張っている。彼らの中には高校を卒業した者もいるが,ほとんどは小学校しか行っていない。皆がランタンプランの成功に向けて頑張っている。皆が偉いのである。
自分も将来何がしたいのか? 何をすべきか? 考え,それに向けて必要なら勉強もし,ランタンの若者たちに負けないように頑張ろうと思っている」。
私は,機会をみては学生たちにネパールの話をする。そのたびに「君たちがサンタクロースならネパールの人たちに何をプレゼントするだろう?」という問題提起をするようにしている。これこそが私自身に対する問題提起でもある。モノ(薬品,学用品等)をプレゼントすれば消耗した後がより悲惨になりかねないし,現金だと一時的には喜ばれても,相手によっては,その人のプライドを傷つけるし,依存する努力はするが,働く努力をしなくなる者も出るだろう。実に難しい問題であり,根本である。そんな話の中から,自分の可能性を求める学生が毎年数人いる。なかには青年海外協力隊を受験した者も3名ほどいる。この2名も途上国の存在,自分の可能性に大いにこだわっている。杉本君は,将来中学校の教師を目指して,向井君は看護士,保健士等を目指して来春より再度進学するための準備を始めた。
教育,医療いずれも人の営みに大きく関わっていく仕事である。今回のネパールでの体験が大きなお土産となって彼らを励まし続けることだろう。
ランタンプランの活動を通してたくさんの人たちと出会ったし,貴重な体験を得ることもできた。JICAでの業務の協力者および被益者は任国政府および政府役人であったような気がする。NGOの場合はそのほとんどが一般市民との協議から始まり現地の協力者を探し,現地で入手可能なモノを利用する。協力者の中には水車の設計から製作,設置,メンテナンスまで信頼して任せられる技術者もいる。彼はスイスの援助を受けた施設にて長年勤め独立し,信じられないほど貧弱な施設と工具でいくつもの水車等の製品を生産している。
ランタンプランのリーダー貞兼綾子氏は言う。「欧米の援助は人を残し,日本の援助はモノを残す」と私たちもまた,モノだけを残す援助にしてはならない。民間のボランティア団体の活動は,会員からの会費やその他の支援組織からの援助という活動費と,活動家たちの有給休暇等による自由時間の取得,そしてグループを構成している人材の能力,技量,何よりもバイタリティにそのできあがりの完成度が左右されている。
私の場合も,今回の活動にかかるすべての実費と,20日間の自由時間確保のために,職場の仲間や家族にはたいへん迷惑をかけてしまった。
このネパールだけでも日本のNGO団体が100近く活動しているようである。なかにはかなりの成長を遂げ,崇高な精神で活躍されている。これからの国際協力はまさにNGOの経験と精神に学び,分かち合って(give and take)前進すべきではなかろうか。