• 海外職業訓練協会  平山 隆次

1.はじめに

海外派遣・技術移転・外国語・異文化・異習慣,こんな言葉で表現される専門家としてパナマに赴いたのは2年半以上前の1993年4月2日でした。短期専門家としては一度経験がありましたが,長期は今回が初めてで,荷造り,旅支度で赴任期間の長さを実感したものでした。私が専門家としてパナマで過ごした2年間を通して,学び,感じとったことを皆様にお伝えし,今後海外で技術協力をとお考えの方の何かにお役にたてればと思います。

2.パナマ

パナマと言われ,正確な位置と特徴を述べられる方は数少ない,いえほとんどおられないと思います。以前は私もそうで,このお話をうかがったときすぐにOKは出したものの,いったい地球儀の上のどの点に行くのかとしばらく考えてしまいました。調べてみれば,アメリカ大陸を南北に分ける,地図の上でいえばきゅっと締まったウエストのような位置にあるのがパナマで,コスタリカとコロンビアに挟まれたところにあります。このウエストを地図でよく見るとアクセントにベルトをしています。これこそがあの有名なパナマ運河です。パナマという国は知らなくてもパナマ運河という名前はほとんどの方が学校の社会科で耳にしているはずです。そうそれがパナマなんです。少しは頭に思い描けたでしょうか。「他に何があるの」という質問が一番恐い。「何もない」とつい答えてしまいそうになります。しかし,バナナの生産量の多さ,インディオの作る「モーラ」(これは布を重ね合わせて刺繍を施したもの)は世界的に有名です。

パナマの産業の特徴は第二次産業がほとんどなく,第三次産業・サービス業がメインで,中でもコロンという町はフリーゾーンと呼ばれる免税店街を持っています。これは空港内にある免税品店と同じで,旅行者ならパスポートを持って行けば自由に入ることができ,安くて豊富な品揃えの品々を楽しむことができます。なにしろ航海上で大変重要な運河を持っていますから,物の流通は世界一,ありとあらゆる製品がひしめいています。この影響かパナマ市内にも多くの店舗が並び,デパートもありお金さえあれば何でも手に入るといったところです。また目を移せば,銀行の数の多さにも驚かされます。このようなわけで地場産業としての製造業はほとんどなく,国力を高める要素がなく,産業構造の改革でもしない限り財産の集中を改善し,国民一人ひとりの生活向上を達成することは難しいと思えます。

とまあ日本人の目から見るとこれからのパナマの発展が気にかかるところで,専門家として技術移転をしてもその成果が反映される可能性の少なさを強く感じさせられる状況ですが,パナマの人々にしたらそんなことは何の気がかりにもなっていません。「お金! 全然ないよ」「今日金ないから昼飯抜きだ」と平気で言い,「一杯やろう! 俺金ないけど,おまえ持っているよな,よし行こう」といった具合です。ラテンの陽気さ,飲んで騒ぐの大好き・パーティ大好き・踊り大好き,「明日首になりそうだ」と平気な顔で笑いながら話してくれる。日本人の常識ではとても理解できない,そんな陽気さを全身,いえ国全体に持っているところです。

3.案件の概要

1980年代に日本のプロジェクトが入って,技術的にかなりのレベルと設備になっていたのですが,1989年のアメリカ軍侵攻でのゴタゴタで機材は盗難にあったり,破壊されたりと悲惨な状況となってしまいました。その後,1991年頃から緊急援助という形で機材が新たに供与され,ある程度の建て直しは行われましたが完全ではなく,また専門家もいない状態で細かな部分の修復はできませんでした。設備的には2割ぐらいの稼働状態というのが現在の状況です。また,人材的にも優秀なカウンターパートであった人たちは民間会社に移ってしまい,プロジェクト時代に到達した技術レベルを維持している科はほとんどないのが現状です。

今回私が赴任した目的はコンピュータ科のプログラミングコースの開発と設置というもので,その背景としては,緊急援助のときに供与した15台のパソコンの有効活用という目標があったわけです。プロジェクト時代にはコンピュータ科はなく緊急援助の際に機材だけ供与したもので,供与後2年近く専門家不在のままパナマ独自でその活用・運用方法を模索しながら進んできたという経緯があります。しかし実際には,かなりの月日放置されたままとなっており,その後職員内部の研修に利用し,私が赴任した年から本格的に情報処理科として動き出したようです。生徒を受け入れていたので授業コースもいくつか設置され,それなりには科としての形を作りあげてしまっていました。内容は,オペレーティングシステムについて・ワードプロセッサの取り扱い・表計算ソフトの利用法・データベースソフトの運用などで,初心者によく実施するパソコン教室の授業内容と同じものでした。そのためさらなるステップアップのためのコース開発が私の仕事の目標となったわけです。

4.配属機関の受け入れ体制

パナマ職業訓練庁管轄の訓練施設(名称:INAFORP)のトクメンセンターが配属機関でした。職業訓練施設として15余りの科を有し,規模としてもパナマ国内では一番大きく,設備としても最も整備されています。過去にプロジェクトが入っていたこと,その当時の人たちがまだ何人か残っていることで日本人に対する受け入れの体制は問題ないものでした。専門家用の部屋も用意されており,カウンターパートも3名選出されていました。カウンターパートの所属は1名が情報処理科,他2名が電子科の指導員です。電子科の2名はプロジェクト時代を知っているうえ,1名はそのときのカウンターパートでもあり,日本へも研修に行っているということで私がとけ込むのに時間はかかりませんでした。

技術移転用機材については赴任時には何もなく,本来のプログラミングの指導について不安な状態でした。また受け入れ側としては私に対する要請内容以外にパソコンの修理も期待していることがわかり,前途多難なスタートとなりました。教室については,供与した機材が配置され何とか機能しているように見えましたが,よく調べてみると4台を管理部門で使用していて授業用には不足分を他の機種で補うという管理をしてしまっていて,これについては何度も機器の整備を要請したのですが改善には至りませんでした。

5.活動内容

初期は指導用機材がまったくなかったので,これも緊急援助時に供与した1ボードマイコンの取り扱いとアセンブラのプログラミングを手がけることにしました。どこの国の技術移転時にも問題となるカウンターパートの勤務体制での障害がここパナマにもあり,なかなか指導の時間が取れないということに脳まされ,加えてスペイン語というやっかいなものがさらに壁を作り,毎日ジタバタとしていました。パナマの方々はほとんど英語を話さず,スペイン語に至っては容赦なく機関銑のように乱射してきますので,理解しようとする努力よりも恐怖が先に立ってしまったのが現状です。以前日本に研修に行ったことのある先生たちは日本語を話してくれるのですが,歳月が経っているためその日本語が意味するところを理解するのが,彼らが話そうとする英語と同じくらい難解で,大至急スペイン語を聞き取れるようになることが仕事上の最重要課題であることを思い知らされました。

彼らは明るく(底抜けに),人なつこい性格なので部屋に入れ替わり立ち替わり入ってきてスペイン語の授業をしてくれますので1日が終わると頭は完全に飽和状態となり,他に何もする気力がなくなり気分が悪くなるという毎日が半年統きました。どこに行かれた専門家の方々も同じような経験をお持ちかと思いますが,私も例外ではなく最初の半年はいったい何をしたのだろうというのが本当のところです。

その後機材がやっと整い,C言語の指導を開始しました。ところが,またも問題発生! カウンターパートのレベルと適性,これが浮き上がってきたのです。もともと情報処理の正規職員は1名だけ,他2名は電子科の先生なので基本的に分野が違い興味を感じないようでした。プログラムを作るというのは発想の勝負だと思うので,興味を持たないことには進展が期待できません。さらに悪いことには,情報処理の先生もプログラミングはあまり得意ではないようで,当初計画したスケジュールを大幅にオーバーし,しかも目標の達成には至りませんでした。何とか彼らの興味を引くことをと考えていたところ,カウンターパートの一人が「自分の兄弟が医院を経営していて,そこでの患者のデータを処理したいが何かよい方法はないか」とたずねてきたので,これだ!と思いデータベースプログラミングを指導することに決めました。まず私の方で,体系立てた各種処理を設計し,ある程度実用的な参考プログラムを作り,それを提示しながらの指導を実施してみました。実際に即したものであったので少しずつではありますが理解してくれ,プログラミングの最も基本的なノウハウはわかってくれたようでした。が,その一段上へのステップアップについては本人の努力を期待するしかありません。

2年目に入ると私のスペイン語も少しは意思を伝えられるようになったので,カウンターパートだけへの指導ではなく広く,コンピュータを勉強したい人たち・他の科の先生方・管理部門の方々・秘書と対象を拡大して授業を開始しました。彼らは,強制ではなく自発的に集まってきてくれた方々なので,講習のときその熱意が強く感じられ,充実した指導ができました。しかしここで一つ憂慮すべき事実を発見しました。彼らの性格的欠点です。それは「新しい知識・技術は個人の財産であり,自分の出世や売り込みに利用できる宝であり,門外不出のもの,他人には絶対に分け与えるものではない」というものです。ですからたとえ1人が素晴らしい技術を得てもそれはその人1人の中に埋もれてしまい他に波及することは決してないということなのです。1人を育て上げれば,その1人が10人を育ててくれ,その10人がまたそれぞれ10人をという具合に広まってくれれば国全体のレベルが上昇し,ひいては国民の生活向上につながると考えていたのですが,どうやらそれは期待できないようです。同じことを1人でも多くの人に伝えていかなければ本当の意味での発展は望めないというのが,私が思い知らされた彼らの中にある最も大きな問題点でした。

ですから彼らがよく口にする「アミーゴ」(友人という意味)はほんの表面的なものなのだとこのときわかりました。すぐに打ち解け「アミーゴ」と連発し,いかにも友人になったように見えますが,その実は単なる「知り合い」で友人などではまったくありません。私の感覚では「友人」とは「心を通わせることのできる人」,「親友」とは「利害を抜きにその人のために自分が行動できる人」と考えていますので,その意味で彼らの言っている「アミーゴ」は「ただ知っている人」でしかないようです。

最後の半年は,大統領選挙が終わり政権が確定し,施設内でもトップも決まり本格的に将来を考え出してくれるようになったので,将来を見据えてどうすればよいかを計画し,その準備をすることに費やしました。このとき初めて私の思い描いていた構想が施設トップに認められ,本当の意味でのコンピュータ科が生まれる可能性が見えてきたのです。しかし,もう十分な時間がありませんでした。そして十分な後方支援もなかったのです。

6.海外技術協力とは

派遣専門家として,任地に赴きまず直面するのが言葉の問題,「指導は英語でかまわない」というのは表向きの話,実際に現地での活動を考えたらその国の言葉でなければ絶対にいけないことを強く感じました。国が違っても人は人,同じ人間,人種・肌の色・背格好は単なる表面の差,心の中をのぞき見れば同じ種類の動物,心を通わせる手段は心でつきあうこと,そしてその国の言葉で話す努力をすることではないでしょうか。また言葉だけに頼る危険性も同時に感じました。日本人同士でも言葉だけで伝えようとすると誤解を生むことがよくあります。大切なのは「Coraozn(心)」です。技術指導のために赴き努力はしたのですが,お恥ずかしい話ですが本来の目的であるプログラミングの指導という点では成果は目標の3割に至るかという程度でした。

赴任前の私は,自分の持っている知識をすべて伝えてこようなどという大それた考えを持っていましたが,今は違います。海外においての技術協力とは,もともと背景の違う者同士が協力し,その国にあった道を模索することなのだと思います。日本の技術を単に指導するのは国内での訓練と何ら変わりなく,それでは生きた協力ではないのだと思い知らされました。私の過去の知識や技術の積み上げは日本という背景の中でのもの,他の国ではそれなりに加工処理する必要があるわけです。その意味で専門家として赴く際には柔軟な感覚と知識の応用力,そして何よりも優しさを忘れないようにして行くべきだと学びました。

また今回の経験で一つ疑問に感じたのは,日本の援助体制の不可解さです。日本の援助はその国が本当に望むものを必要なときに送っていると思っていましたが,実際に中に入ってみると一部の思惑で援助だけが一人歩きをしてしまい中身の伴わないものになってしまっていることを強く感じました。本当に必要なものがわかるのは現場の先生方であり,彼らを指導できるのは同じ分野の専門家です。決して施設の上層部でもなければ政府の要人でもありません。今何が必要か,そしてどう対処すべきかを専門家は知ることができます。しかし,専門家にはそれを,その声を反映する力はないようです。機材供与が実を結ぷためには,現場の本当の声を理解できる専門家が携わって決定し軌道に乗るまで指導する必要があると感じました。でも実際はその他の要因が多く関与し目標のぼやけたものとなってしまっているようです。実を結ぶ国際協力・本当の意味で相手国の発展を考えた援助。自己満足のODAの時代は終わりにしなければいけないのではないでしょうか。

7.おわりに

他の国で生活していると逆に日本のことを冷静に見つめることができます。日本の経済力は世界トップであり,多くの国々がその援助を期待しています。また,その経済の成長を模範として,後に続こうとする国々も多く見受けられます。確かに経済力という点での素晴らしさは私も認めますが,日本の失ってきたものの方が大きいように思えます。戦後経済の成長を重視し,企業の発展を最優先した見返りに人としての生活のゆとり・心の温かさ・心のふれあいを見失ってしまったのではないでしょうか。それをパナマの人たちとのふれあいを通して強く感じました。

日本人の生活は中流以上,物質的にはパナマと比べたらものすごい差,ほとんどの物が各家庭に揃っています。しかし,私が彼らと過ごしていた時間を思い返せば,それらの物質的な富は何の意味も持たないことに気づきました。家族・隣人が集まりビールだけで夜の更けるのも気にせずに語り合う,ラジカセ一つで音楽を奏で皆で踊る,何の特別のものもなくただ庭先で語らい,踊る。誕生日には必ず手作りのケーキを用意し皆で祝う。貧富の差が激しく貧しい人たちは盗みなどの犯罪を犯す率は高いです。でも家族や本当の意味での友人たちの中では助け合い,分かち合って生きている。そんな彼らと触れ合っていたときは私もとても落ち着いた気分でいられました。

日本のように物質的に発展することが本当に必要なのか,それを考えるとき,今の私はこう言います「日本の富よりも,パナマの財産を大切にしてください」と…。最後に,今回の派遣に際し,公私にわたり大変お世話になった関係者の方々に深く感謝し,ここで謹んでお礼申し上げます。

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