飯沼 私は今から二十何年前,1968年ごろから,模倣の時代から創造の時代へと日本の産業社会全体が移りつつあるのではないかと言い続けてきました。バカの一つ覚えのように…と言ったほうがたぶん本当であろうと思います。あちこちで講演もしましたし,書いてもきました(注1)。本日のこの会場のなかの何人かは,すでにご存知かもしれません。そのときはお許しいただきたいと存じます。
産業社会が模倣の時代から創造の時代へ移っていく。明治以降1960年くらいまでの日本の状況を見ながら,1968年の著作で私はそういう一つの仮説を出したわけです。勝手なことを言うなと,たぶんどなたか考えておいでになると思います。こういうことを言うからには何らかの判断の基準というか,尺度を示す必要があろうかと思います。その尺度を一つお見せいたします。
ただいまごらんいただいております 図1 は日本から外国に売っている技術と,外国から日本が買っている技術の収支の比率を見たものです。
1960年(昭35)ころは日本から外国へ売れているのは2.4%くらいで,外国から100%入っていた。この比率を見ることで,これを一つの尺度として日本の産業社会が模倣の時代にあるか創造の時代にあるかということを判断できるのではないかと私は申し上げたいのです。これに皆さんの賛同を得られるかどうか,よく聞いていただきたいところです。
なぜこんなものが尺度になるか。現代の日本の社会全体が前進していくときに,その駆動力になる部分がもはや農業でないということは確かだと思います。農業よりは工業だと思います。しかし工業のなかで何が駆動力になっているか。ある場合にはチープレイバー,労働力が安いということが駆動力になる場合も大いにあると思います。しかし,技術の進歩や技術の強さが駆動力になっている場合も否めないでしょう。
他方,資本をもっている人は次に新しく設備投資をしようとするときに,外国の技術に投資したほうがいいか,日本国内にある技術に投資したほうがいいかを天秤にかけるものです。天秤にかけてみた結果,これが100対100になった。1対1になったということは,外国から買ってくるのと,日本国内で創出されるものとがほぼ同じであると見てよろしい現象ではないかと思います。
ところが,1960年ころ,第2次世界大戦が終わって15年くらいの時点においては,日本から海外に輸出される技術はわずか2%強,ほとんどナイに等しいわけです。つまり全部外国の技術が入っているに等しいと考えてもよい。大雑把に言えばそういうふうに考えてよい。
これに対して,1989年(平元)の数字はだいたい100%です。現在は1995年ですから,94年か93年の統計の数字が最新でありますが,それによると日本の技術のほうが「110」出て行って,輸入されてくるのが「100」。「科学技術白書」などをご覧になるとこう示されているはずです。この現象は,日本の産業社会の基調が模倣から創造へ移りつつあると見てよろしいのではないかと思います。
この技術貿易収支の統計はかなり重要なメルクマールではないかと思います。しかし,これだけでよいのか。たったこれ一つだけで判断できるのか? そのような疑問があろうかと思います。
その次のデータといたしまして,この 図2 です。アメリカの特許庁(US patent office)に外国人が特許を申請しておりますが,どこの国の人が多いか少ないかということを見ているわけです。内国人というのはアメリカ人自身のことでして,右側にゴチャゴチャ書いてあるのが外国人です。1970年の時点で見ますと,西ドイツが最も大きな比率を占めていると思います。その次がイギリスです。それから日本,フランスという順序です。
ところが,1988年になってきますと,実に日本が20.7%で第1位,イギリス,西ドイツを追い抜いています。これは特許の登録件数を国別に見た量的な統計です。しかし,単に量的なものだけでは満足できない。質的にはどうなんだという疑問がおありだと思います。日本の技術はつまらない周辺技術に対する特許が多いのであって,質的に高い基本特許は少ないと昔から言われてきました。ところが,この見方も最近はかなり変わってきてます。
これ はNSF(National Science Foundation)の資料です。特許も引用頻度が高いものほど質が高いと一般的に言われています。そういう意味で,基本特許に近づければ近づくほど引用される回数が多い。そういう引用頻度を指標にして統計をとりましたときに,1位になっているのは日本です。2位がアメリカ,3位がイギリスという順位になっています。
ニューヨークタイムズにブロードという記者がいますが,彼が二度にわたって日本技術特集を書いております。彼は,以上のようなデータを統括して日本の技術は昔から一般的に全部コピーだよ,日本は模倣が非常にうまい国だよと言われてきたけれども,最近の技術動向はそうではナイということをはっきり書いている。
現在の日本の技術の現状は輸出のほうが「110」で,輸入が「100」というようなところまできています。おそらくブロード記者の見解をも含めて,日本の技術の現状は模倣から創造へ,移行してきている。これはほぼ歴史的事実と認めてもよいのではないかと思います。その真を,今日,皆さんに判定をいただきたいわけです。私自身は過去二十何年間フォローしてまいりまして,これだけのデータがそろえば,これはもはや単なる仮説ではなくて,社会現象として歴史的事実といってヨロシイのではないか,と考えるわけでございます。
先ほどお見せいたしました 図1 は,第2次世界大戦以降の話でありますけれども,明治以降,第2次世界大戦の敗戦に至るまでのあいだで,日本の技術このような状況(技術貿易の収支がバランスする状況)になったことはあるか。これはなかったと言ってほぼ間違いございません。今このデータを出すと,とても時間がありませんから,これは私の著作(注2)に当たっていただきたいと思います。
結論だけを申しますと,明治維新からあと,そして第2次世界大戦以前,つまり1868年から1945年のあいだに日本の技術水準がここまで高まったことはあったかというと,それはなかった。これはほとんど確かです。そういうことを考えると,日本の産業社会全体が模倣から創造への転換点にきているという事象は明治以降,130年くらいにして初めて起きた一つの歴史現象だといってほぼ間違いないと思います。
今から20何年前,私が最初の仮説を出した1968年ころ,それでは,一般の人々はどのように考えていたかということを二つの例をあげて説明したいと思います。
一つはマルクス系の学者でございます。どういうわけか技術の歴史を勉強をしている人,技術史家という人たちの多くは左翼のほうの学者が多うございます。そういう人たちはおおむね次のように申しておりました。資本主義の社会ではだめなんだ,資本主義経済を下部構造としている限り,人間性の尊重とか,技術の創造性とか,学問の自由というのはあり得ないんだ。そのような基調の話をしています。
私にとって最も印象が深かったのは星野芳郎さんの見解です。彼はそういうものを1960年代に数多くの論文で発表しています。勁草書房という出版社から彼の本は多く出ておりますから,もし関心のある方はお読みいただきたい。
星野さんの見解は,明治以降日本の産業社会は欧米の水準に追いついては引き離され,追いついては引き離され,この繰り返しであった。日本が資本主義の下部構造を持っている限り,いつまでたっても日本が追い越して,日本の技術が自立する可能性はないということを彼は書いています。しかし,おそらくこの見解は今ではほとんど通用しないのではないでしょうか。
中国とかソビエト,東欧の現状を見てみたときに,社会主義の国だからそんなご立派な技術が出てきましたか,そんなご立派な学問が出てまいりましたか。少なくとも,社会主義イコール人間尊重に関してはノーだと思いますね。
一方,日本の技術の,1965年以降の動向がどうであったかと言うと,少なくとも技術貿易収支で見る限り,自立の状態には達しているわけです。追いついては引き離されの繰り返し(星野説)とはいえない。これが1960年代の一つの有力な見方でした。
もう一つ,左翼系ではない,一般の科学者や一般の技術者が日本の科学や技術に対してどう考えていたか。
私は1958年(昭33)に大学を出まして,ある新聞社の水戸支局にまいりました。そのころは東海村で原子力が立ち上がるときでございました。実験用原子炉の1号炉,2号炉,あるいはコールダーホール発電炉などを建設している現場を,長靴を履いて取材をする記者でした。
そのようなときに取材先の研究者や技術者から耳にタコができるほど聞かされたことは,日本の技術は全部ものまねである。日本人は創造性がないんだ,という嘆きの声でした。実際,彼らがやっていることは,ほとんどものまねでした。コールダーホール発電炉はイギリスから導入したものですし,実験用の原子炉などはアメリカから持ってきたものです。すべて技術導入でした。技術導入以前のモノそのものを輸入してきていたわけです。
したがって,彼らは非常に自嘲しておりました。自分たちが日本における原子力の先端を行っているという誇りは確かに持っているようでありましたけれども,自分たちはクリエーティブな仕事をやっているんだ,という意識ではない。その人たちは,日本人には生まれつき資質として模倣性はあるけれども,創造性は乏しい。民族性としてそうなんだよという自嘲的な言い方をしていました。
今でも科学者や技術者のかなりの人たちはこのように考えていると思います。例えば,今日,コンピュータをやっている人たちはそれを最も強く感じているようです。それ以外でも自分の分野,例えば石油化学にしろモータにしろ,自分たちがつくりあげた新しい技術はほとんどない。そう言われたら,過去の歴史的な事実としてそれは否めないと思います。
このことを最も早い時期に日本人として自覚いたしましたのは長岡半太郎(1865~1950)という物理学者です。彼は幕末生まれで,日本の物理学の元祖みたいな人です。亡くなったのは昭和25年でした。85歳で亡くなっています。
彼は東京大学の物理学科の第1期生のはずです。彼は東大の物理に入りまして,1年生のときに1年間休学しています。なぜ休学したかというと,自分は一生物理学をやろうと思っている。しかし,ヨーロッパやアメリカの物理学者の受け売りをして日本人に教えるために,自分は一生かけて物理学をやろうとしているのではない。世界の第一線の学者に伍して,物理学の最先端を開けるのであったらおれはこの道に進もう。しかし,自分にその能力があるやなしや。自分には……というよりは,東洋人にはその能力があるやなしやと彼は悩んだわけです。
そして,彼は1年間休学しまして,歴史を学び直します。中国の古代史のなかにおける科学的発見の事実はどのようなものがあるかを調べ直します。1年間調べてみて,彼は自信をもって,これだけ過去における歴史的事実があるからには,東洋人であっても物理学の第一線に出ていくことはできるであろう。そういうことで彼は物理学者への道を本格的に歩き出すわけです。これは明治15年ころ,そのくらいの時期です。
ところが,長岡半太郎の抱いた不安(自信のナイ感じ)はもっとあとにもずっと続いています。例えば,理化学研究所の仁科芳雄という日本で最初のサイクロトロンをつくった人です。終戦後,理研は組織的にもガタガタになってしまいますが,ともかく戦後の理研の社長というか理事長というか,ナンバーワンのポジションになった実験物理屋さんです。彼の回想録のなかにも,長岡半太郎と同じようなことが書いてあります。
ニールス・ボーアという量子力学を確立した人の研究所がデンマークにありますが,彼,仁科はそのボーアの弟子になりました。1920年代にヨーロッパで量子力学が学問として立ち上がっていく現場にいたわけです。その仁科は,量子力学で代表するような壮大な学問の創造を,われわれ日本人にはやれるのだろうかという,ある種の劣等感と不安感をもって1928年(昭3)に日本へ帰ってきます。
その10年近くあとにニールス・ボーアが日本を訪問してきます。その来日のときにボーアに対して,“われわれ日本人ははたしてあなた方のようなクリエーションをする能力があるのだろうか”という問いかけを仁科はしています。ボーアはそれに対して,民族性なんてことでは毛頭にないと返事をしています。このときのボーアの返事は,単に日本人とヨーロッパ人という問題だけではなくて,ヨーロッパ人のなかにおけるナチスと,ナチス以外のヨーロッパ人との関係をも念頭においての発言ではないかと私は考えております。
といいますのと,昭和の初めというのはナチスが台頭してくるころですね。ナチスは自分たちゲルマン民族は世界で最も優秀である。ユダヤ人は悪い。ゲルマン民族はすべてのうえでナンバーワンでなければならない。それ以外のやつは劣るのだ。だから,つぶしてしまえというような思想。そういう哲学に基づいてナチスはユダヤ人の物理学者をどんどん国外に追い出した。ユダヤ人のほうも逃げ出しはじめた。そのようなユダヤ人の物理学者が最初に頼って行った先がデンマークのボーアの研究所だったわけです。そういうユダヤ人学者をニールス・ボーアは助けていました。それであっただけに民族性として劣っているとか,優秀であるというバカなことは言いなさんな。そういうことは社会システムの積み重ねのうえにできるものであるという返事を,ボーアは仁科芳雄にしたのです。
いま長岡半太郎の例と仁科芳雄の例と二つあげました。それから,戦後の日本のことも申しました。いずれにしましても,われわれ日本人は民族性として創造性に欠けているのではないか。模倣はできるけれども,創造はできないのではないかという見方がわれわれ日本人の間では非常に支配的であった,ということはおわかりいただけると存じます。
ちょっと話はそれますが,先ほどご紹介のときに,私は大阪大学の工学部の造船に5年間いたというご紹介をいただきました。5年間おりましたけれども,私は卒業しないで京都大学の法学部に移っています。
そんなことですから,私は単に理科系オンリーの人間ではありません。文科系の雰囲気にも若干は触れております。そんなこともあって科学者や技術者が,おれたち日本人はダメダ,ダメダという悲観論に対してそうなのかなという違和感を抱いていた。どうもそんな話とは違うんじゃないかと考え続けていたわけです。
ニールス・ボーアの話などを知るのはもっとあとのことですし,当時,私は26か27歳のころですから,自分の考えを論理立てることもできません。ただ漠然とした感じとして,科学者や技術者の言っているような話(民族性論)ではなさそうだぞという気はしていました。
そういうものを1965年くらいの時点で一つの仮説としてまとめあげたのが『模倣から創造へ』という私の最初の本でした。そのなかで私が新しく言いだしたことは,創造とか模倣ということはディマンド(需要)とサプライ(供給)で決まるんだよ。社会がそのどちらを要求しているかで決まるんだよ,ということでした。
昔から「必要は発明の母」と言いますね。あれはまさに必要があるから発明が生まれてくるんだ。ディマンド(要求,必要性)があって発明が生まれてくるんだと言っているわけです。もちろん,人間の好奇心によって発明は生まれてくる場合もあるとは思います。けれども,社会全体の基調になるためには,社会全体がそういうものを必要とするかしないか。その見極めをしっかりもたないと,民族性なんかで決まるものではない。
おそらく民族性としてはナチスであろうとユダヤ人であろうと中国人であろうと日本人であろうと,アフリの人であろうとエスキモーであろうと,それなりの創造性は持っているだろう。しかし,社会がある発展段階に達しないことには,そういうものを必要としないだろう。明治の初めから大正・昭和という時代に日本人がよしんばたいへんな創造をしたとしても,社会としてそういうものに関心を向けるよりは,ヨーロッパやアメリカに行って見てきたほうが,手っとり早い。
そういう具体的事例は実際にあります。本多光太郎の磁石(KS鋼)の話なんていうのはその典型ですが,これは省略いたします。日本に生まれておきながら,日本ではマーケットにつながらなくて,外国へ出てマーケットにつながったという話はいっぱいあります。そういうものが産業化につながるか否か……は,日本の社会としてのディマンドがあるかないかで考えなければいけない。まず,ディマンドとサプライの関係で考えてみようじゃないか。そのことを統計的に物語るのが先ほどお見せした技術貿易収支だと思います。
それから,私が新しく提示したもう一つの見解は,創造性は誰にでもあるという見方です。誰にでもある。たいていの人間には大なり小なりありますよ。しかし,そうだとしても,その上に乗って抑圧しているものがあるのではありませんか。中国には中国なりの社会の抑圧機構があるでしょう。日本には日本なりの抑圧があるでしょう。その抑圧しているものは何なのか。むしろ,それを取り除こうとする努力のほうが,日本人に創造性があるかないかなんて悩んでいるよりは,はるかに建設的ではないだろうか。これが1968年の著作で私の提出したもう一つの仮説です。
このような,模倣から創造へという大きな変動がいま日本では起きていますよと私は申しましたが,実はそういう現象は単に日本だけの特殊現象ではなくて,アメリカにもヨーロッパにもあった現象なのです。
私が最初にそのことに気がついたのは,1965年にデュポンの研究所に行ったときでした。ワシントン(DC)の少し北のデラウェア州にウィルミントンという町があります。その町のデュポン社の研究所へ行きました。
戦後に教育を受けた人間といたしましては,デュポンというのは大変な化学の殿堂のような会社でした。もちろんナイロンを発明したということはありますけれども,そのあとも原爆や,水爆の開発にも関与していた。クリエーションの塊みたいな会社だと思って,そこを見学に行ったわけです。
車で研究所の建物に近づいていくとき,さぞかしクラシックな建物だろうというのが私の心のなかにあったイメージでした。アイビーリーグという言葉がございますね。アイビーというのは蔦でございますから,レンガの古い建物に蔦がはっている。そういうような重々しくて,伝統の感じられる建物というイメージを私はデュポンという会社に対して勝手に持っていました。ところが,私が目前にしたデュポンの建物は白茶けたそのへんの高校の校舎みたいな安ものの建物なんですね。そんな歴史の重みを感じさせるような建物ではありませんでした。なんだ,こんな建物かと思いつつ,私はデュポンの広報担当の人に,この建物はいつできたんですかと聞いたら1930年(昭5)ころだという話でした。それで慌てて,“デュポン社のヒストリーを教えてくれ”。ここで教えてくれなくても結構だから,“あとでデュポンのヒストリーを私のアドレスに送ってくれ”と言って帰ったわけです。
その当時,私はニューヨークに住んでいまして, まもなくニューヨークに本が届きました。それを見て私は初めて知ったんですが,イレーネ・デュポンというフランスの貴族がフランス革命で追われて,アメリカへやって来るわけです。イレーネ・デュポンは火薬の製造技術をもってアメリカへやってきたわけです。それはアメリカという国が西部へ西部へと発展していくときに,発破をかけたり鉄砲を撃ったりするための原料として役に立ちました。したがって,火薬のメーカとしてデュポンという会社は発展していったわけです。
ところが,アメリカ大陸の西の端まで開拓が終わってしまいますと,もうやることがなくなってくるわけです。火薬ではそれ以上もうからなくなってきた。その次の時代にはドイツからいろいろな技術を買ってきております。セロハンとかお人形のキューピーさんをつくったようなもの,今で言えばプラスチックですが,もっと燃えやすくてすぐ火がつくようなものを買ってくる。デュポンはそういう形で化学会社として発展し始めます。しかし1930年ころになるともはや,ドイツから入ってくるものもなくなってくる。
そのときに初めてカロザースという化学者をハーバード大学から連れてきて,絹に近い人工の糸をつくれとなるのです。これが1930何年です。そのようなことを見てみると,アメリカもそんなにクリエーションの塊ではなかった。たかだか昭和の初めくらい(1920年代半ば)からクリエーションが始まったらしいということを私は感じ取りました。私が,これを感じ取ったのは1965年ころです。
そのあと,日本へ帰ってきて,いくつかの本を眺めているなかで,今度はドイツのウエルナー・シーメンスの自伝にめぐり会いました。もっとも,私はドイツ語の自伝を最初から読んだのではなくて,その孫引きみたいなものを日本語で読みまして,その孫引きの部分が本当に書いてあるかどうかオリジナルを取り寄せて,その気になるところだけ一生懸命読み出したわけでございます。
ウエルナー・シーメンスというのは“電気のシーメンス”です。彼が死ぬ直前に書いた伝記になんと書いているかというと,“1880年から1890年ころのドイツの技術はすべて模倣である”どこの模倣かというとイギリスとフランスの模倣である。模倣によって,安かろう,悪かろうというものをドイツでつくって,それをまたイギリスかどこかの国の船に乗せて,輸出していた。それがドイツの現状であった。これではナランというので,自分は特許法の改正に取り組んだとシーメンスは告白しています。
いずれにしましても,断片的なデータです。しかしヨーロッパもアメリカもそんなに昔々からクリエーティブであったのではなさそうだなということに私は気がついたわけです。
その後,歳月を重ねる過程で見つけ出したものの一つがユアサ現象というものです。湯浅光朝という方で,いま90歳くらいになっておられます。この大学から遠くない八王子市めじろ台というところに住んでおられますが,科学の歴史家です。戦後第1回の日本科学史学会の会長でもあります。これから紹介いたします仕事は神戸大学の教授のときに行ったものでして,このあらましはいまでも『日本科学技術100史年表』(中央公論社刊)のなかに示されております。
そこには私がこれから紹介するこの 図4 も出ています。湯浅先生は1962年(昭37)にこの図を英文で発表されています。これはどういうことを言っているかというと,科学者と技術者を年代別と国別に分けたときに,どういう分布になるかということを統計的に見たものです。日本語の資料は『科学技術史年表』(平凡社・1956年)。これともう一つはウェブスターの人名辞典(1951年版)。この二つをそれぞれ独立した資料として,それをカード化しながら分類したものです。それによると,まずイタリアは1600年ころにピークになっています。1700年ころになりますとイギリスになっています。1800年はフランスになっています。そのあとドイツになっています。この論文発表は1962年時点ですが,ここではドイツの次にはアメリカにくるらしいと示されています。これはウェブスターの人名辞典でも,平凡社の年表でも同じ傾向です。両者は,しかも非常に驚くほど一致すると湯浅さんは言っています。
もう少し説明いたしますと,イタリアの1600年というのはガリレオが輝いていた時代でございます。イギリスの1700年というピークはニュートンが『プリンキピア』を出した時代です。フランスの1800年というのは,ドールトンあたりの化学の革命の時代です。ドイツは1800年の後半でして,コッホの細菌学やシーメンスの電気が花開いた時代です。そして,アメリカにいく。こういう傾向が見られるわけであります。このピークのところはクリエーションでありますが,このクリエーションに至る前の段階は模倣であったはずです。それではこの段階,つまりピーク以前の歴史段階には,果たして模倣現象がたくさん出ているかどうか。その検証を,まずアメリカについて話します。
ナッサン・ラインゴールドという歴史家がおります。科学史家です。『サイエンス・イン・アメリカ』という本を上下2巻出しています。その下巻のほうが1900年から1939年にかけてのアメリカのサイエンスの状況はどうであったかということを示しています。ただ,これは一般的な通史として書いたものではなく,その時期に生きてきたアメリカの科学者や技術者,あるいはそういうものはスポンサーであったカーネギーのような人たちがどのような書簡を残しているか。とりわけ往復書簡を分析することによって,当時,どういう傾向であったかということを物語っている本です。
これを読んでいて,私が本当にびっくりしましたのはelendという言葉でした。原文は英語の本ですから英語だとばかり思って辞書を引きまくったんですが,elendなんて言葉は大きな辞書を見ても出ていません。やっとわかったことは,これがドイツ語でした。ドイツ語でミゼラブルに近い言葉です。“みじめ”という意味です。1900年ころから1930年ころのアメリカの科学界の雰囲気は“みじめなものであった”というのです。ヨーロッパの科学者に比べると,アメリカの科学者は“みじめ”であった――,と書いてあります。もうすでにそのころ,というのは1900年ころ,アメリカの鉄鋼業は世界のトップに達しています。鉄鋼業の生産において世界のトップです。しかしながら,アメリカの科学は決してクリエーティブではなかった。
では,そのころ,アメリカの大学は何をやっていたかというと,研究などということはあまりやっていない。私立大学が主ですから,大学生に対する教育までをちゃんとやってくれればよいという雰囲気です。したがって,研究に対する関心は非常に乏しかった。むしろ,私立大学の経営者は,金がかかる研究などやらないでくれという雰囲気でした。教育だけやってくれればいいんだという雰囲気でした。
しかも,アメリカの全体の社会風潮は拝金主義です。この最も典型的な小説として,マーク・トゥエインが書いている『金メッキ時代』という本があげられます。マーク・トゥエインは『トム・ソーヤの冒険』などを書いた非常にユーモラスな小説家ですが,この『金メッキ時代』では1880年ころのアメリカの社会がどのようにくだらなかったか,ということをこの本のなかで痛烈に諷刺しております。そういうふうなものがアメリカの風潮であった。お金になるものは尊敬するけれども,お金にならないものは尊敬しない。
したがって,ラインゴールドは,この1900年代初めの米国の科学者について,“腕のいい鋳掛け屋のほうがうさん臭いサイエンティストなどよりはるかに尊敬された”と書いております。あの人は大学でサイエンスをやっていると言ったら,一般市民は,何をやっているやらわからん,あんな人よりは,こちらに腕のいい鋳掛け屋さんがいたら,その人のほうを信頼する。それがアメリカの雰囲気であったと書いています。
そういう米国の社会のなかにあって,しかしこれではだめだということを自覚するような人たちが出てくるわけです。自覚するというと格好が良すぎるかもしれません。むしろそれよりは,われわれ米国もこれだけの経済大国になったんだから,やはりヨーロッパ並みのものは持たなければならないという意識をもつ人たちが出てくるわけです。それがカーネギーでありロックフェラーであり,プリンストン高等研究所をつくったバンバーガー一家のような人だったわけです。
そういう人たちが,われわれの米国にももっと基礎的な研究をする場がいるよ。今の大学にはそれは期待できないよ。だから,そういうものを自分たちの金でつくってみようと言いだします。その最初がカーネギー研究所です。これは1902年(明35)にできております。同じ年にロックフェラーは医学の研究所をつくっています。それから二十数年遅れて,今度はプリンストンに高等研究所ができています。ここに,アインシュタインがナチスを嫌って逃げてくる。それで,ここの研究所は一躍世界に知られるようになったわけです。
そういうなかでクリエーションの仕事が重ねられていって,それが第2次大戦中に原爆の開発という形で目に物を見せたわけです。そういう道筋があったうえで,第2次世界大戦後初めて国がお金を出しましょうということになってきて,NSFなどがつくられた。この段階になって,国からの本格的な研究投資がなされるようになった。
さっきラインゴールドという歴史家の研究を紹介いたしましたが,もう1人ローゼンバーグという経済歴史家でスタンフォード大学の教授は“日本と米国は重要な観点から非常に類似性がある”ということを,来日時の講演で語っています。
以上のような例でもわかりますように模倣から創造へという歴史の変遷は,単に日本だけの特殊現象ではなさそうです。おそらく日本が創造の時代を過ぎたころには,韓国とか台湾,中国,インドネシア,あるいはインド,アフリカへ創造活動の中心が移っていくのではないかと思います。この変遷は歴史のなかでの一般現象と考えたほうがよろしいのではないか。そして,われわれ日本の社会はいま模倣の時代をようやく抜けかかってきていると,私(飯沼)は申しているわけです。
ただ,ここで誤解しないでいただきたいのですけれども,1980年代には,日本は技術大国だという表現があちこちで見られました。しかし,私は「日本が技術大国」などと言っているのではないのであります。ようやく模倣の時代から脱しただけなのです。これからは本格的な創造の時代に入りそうです。しかし現在が,決して技術大国というわけではありません。
アメリカは自分のところから海外に輸出している技術のほうが,外から買っている技術の6倍とか5倍くらいあります。こういうのは技術大国に値すると思います。しかし,日本はようやく100対100,あるいは1対1になった。それはドイツやフランス,イギリスとイコールか,若干上のところです。ようやくここまできたということです。
では創造化の時代にこれから日本が入ってゆくとしたら,われわれは何を用意しておかなければならないでしょうか。
私は創造のための器と模倣のための器は別ものだと思っています。一緒だと考えてはイケナイと思っております。化学をやっておられる方が酸性のもを煮るときには,おそらく酸性のものを煮るに耐えるような鍋で煮るはずです。アルカリ性のものを煮る鍋で酸性のものを煮たらボロボロになってしまうとか傷んでしまう。あるいは内容物が変なものに化けてしまう――のではないかと思います。あるいは,家庭料理で,油で揚げ物をする鍋とおでんを煮る鍋とは別物です。
これと同じような意味で,創造活動のための器と模倣のための器は別物だと考えたほうがよいのではないかと思います。創造と模倣は確かに連続性はあるものです。連続性はある。けれども同じものかというと,それは違うと思います。
創造活動の本質とは何かということを考えてみると,創造というと真善美とか立派なものだと考えがちです。私自身もそういうふうに考えていた時期があります。しかし,それは間違いではないかと思います。むしろ,創造というのは単なる自己主張だと考えたほうがよいのではないか,と思います。
したがいまして,悪の自己主張も十分にあり得ると考えたほうがよろしいと思います。決して善の自己主張だけではなくて,とんでもない悪をやらかすやつもいれば,とんでもない悪を言いだすやつもいるわけです。
創造活動が最初に生まれ出るときというのは,金も石も混在している。あるいは毒の芽も薬の芽も初めて出るときは見分けがつかない。芽が出たときから,これは役に立つか,役に立たないか,本物か偽物か,それを判定せよというのは,生まれてきた赤ん坊を見て,これは天才か否か,丈夫か虚弱かを判断しろというのに等しい仕業ではないかと思います。
しかしながら,創造活動の本質が自己主張だということを前提とするならば,自己主張をするのがいいのか,しないのがいいのかといえば,したほうがよいことになる。自己主張をよしとすることが,器にとって第一の必要な要件になります。ところが日本の場合,だいたいにおいて自己主張はするなと言います。自己主張をするのは悪いことだ。日本の社会の価値観としては自己主張は悪のほうに偏っているのではないか。
学校の講義を例にあげますと,講義のなかにおける学生の側からみる自己主張はたぶん質問だと思います。けれども,日本の学校ではあまり質問を喜ばない。私なども一度そういう経験があります。確かに私のほうが悪かったんです。アホみたいな質問をしたわけです。そうしたら,先生からはもっと勉強してから質問しろと叱られました。
しかし,待ってくださいよ。そうだとしたら,マルクスなどというものについて勉強してから質問せねばならんとなったら,注釈書だけでも相当数ありますね。それを全部読んでから質問するとなると,私はもう老人になって,腰が曲がったころに初めて一言質問させてくれと,申し出なければいけない。そんなおかしな話はあるか。自分が13歳なら13歳,18歳なら18歳,その時点において先生の話を聞いて,これはおかしいと思ったら,おかしいと言うほうがよいのではないか? これは自己主張を善と見るか悪と見るかという話だと思います。
ここまでは第1段階の話です。第2段階の話として,自己主張が善だとしても,これだけは単なる主観であります。科学や技術は客観的事実だとされています。ただ,より正確に申すならば,客観的事実として立証されたものが科学であり技術になったのです。それが最初に生まれてくるときには客観性などは何もないわけです。例えばアインシュタインが最初にE=MC2と言い出しても,実験で確認されるまでのあいだは,変なおじさんが言っているだけということでしょう。例えば,エックス線を最初に見いだしたレントゲンにしても,暗室のなかでこんなことをやったら壁に影が写ったよ,どこにも光はないよというのが最初の報告です。周りの人から見れば,あいつは何かにとりつかれているんじゃないか,おかしいんじゃないかと疑ったと思います。
そういうときに,いや,そうじゃない。何回実験をやってもこうだ,これでもか,これでもか,これでもかと自己主張を重ねていく。そのなかで,次第に周りの人も,どうもあれは本物らしい,じゃあ,おれも追試をしてみよう,おれもやってみようというふうにして客観化されていく。だから,最初から客観的な真理などというのはあるはずがナイ。創造活動については,われわれはそういうことをまず認識しなければならないのではないかと思います。
これはおそらく絵描きさんとか詩人,文学者でもみんな一緒だと思います。ただし,絵描きさんや詩人,文学者と,科学や技術,あるいは経営者との違いは組織をつくらねばならないか,つくらなくてもすむか,ということです。絵描きさんは自分一人で絵を描きあげられる。それが売れようが売れまいが,創造活動はそれで完結するわけです。しかし,科学や技術の場合,いやおうなしに組織をつくって実験して,実証していかねばならない。そういった場合に,その組織のあり方が自己主張を認める組織であるか,認めない組織であるか。これは非常に大事なポイントだと思います。
そうなりますと,まずクリエーションする側には自己主張を非常にしぶとく,しかも繰り返し繰り返しそれをしていくだけの強さがなければだめだと思います。そんなのはダメだと言われたから,もうやめてしまう。これではせっかくいい茅が出ていても,すぐつぶれてしまう。したがって,個人が十分に強くなければいけないというのが一つ言えると思います。
もう一つは,組織のなかからいろいろなものが生きてきたとき,どれが薬だか,どれが毒だかわからないというときに,同一の培養器のなかだけでずっと育てていたのではわからない。このなかで葉っぱの黄色いものはこっちへ分けてみよう,葉っぱの黒いのはこっちへ分けてみようというふうに選別して,それはそれ,これはこれというふうにして別の場(培養器)に移していかなければならないと思います。
ところが,日本の一般的な組織はずっとこのなかにいろというわけです。私は終身雇用ということを指しているのですが,長くいることが立派なことだ。それに耐えるのが立派なことだ。これは会社でも役所でも,大学でもそうですね。こうなりますと,今度は選別が十分に行われないわけです。選別が行われないから,先生の言うとおりの種を純粋にまいたやつだけはヌーッと育って伸びてくる。
これから創造活動を社会の起動力にしていきたいと思うのであれば,これではダメです。やはりそういうものを選別していけるような組織に変えてゆかねばならない。若い人の側からいいますと,武者修行に出ていくんだという心構えと社会システムがなければならない。つまり,学部教育をここの大学で受けたとしたら,大学院は別のところに移るんだ。そういう社会システムをつくっていかないことには創造活動は活性化しないでしょう。
そういう観点で日本の現状を見てみますと,模倣活動のための器はすでに非常によく整っております。東大にしてもそうですし,京大にしてもそうです。確かにごく少数のノーベル賞は出ております。しかし,組織的に創造活動を育てるという社会システムは極めて乏しい。それを築いていくのがこれからのわれわれの仕事ではないだろうかと考えます。
このへんで私の話は一段落として,皆さまからの質問をお願いします。
見城(能開大研究課程部長) 先生の話のなかで,アメリカに拝金主義という時代があった。そのなかで鋳掛け屋と大学の先生のどちらを尊敬するかというと鋳掛け屋だというお話でした。実は,私,最近非常に古いアメリカの少年少女に読ませる科学技術の本をわりあい丁寧に読んでおります。そのなかにtinkerという言葉が出てきます。tinkerって何だろうと見たら鋳掛け屋と書いてありました。そのなかによく書いてあるのが,その当時のヨーロッパの学者や思想家,今度はthinker,考える人たちの話です。言ってみれば貴族のユトリのような表現がいろいろあったんですね。アメリカではそのころまずユトリがなかったのかなとちょっと考えたんです。先生のお話のなかにはユトリという話がなかったんだけど,ユトリのなかから自由なものの考えが出てくるという話がよくあるんですが,この点はどうなんでしょうか。
飯沼 その話は半分は本当だと思います。半分はウソだと思います。というのは火事場の馬鹿力というんですか,必死になったときに知恵というのは出てくるのです。確か毛沢東は創造の条件として①若いこと,②貧乏なこと,③無名であること―をあげていました。他方,衣食足りて礼節を知るともいいます。衣食が足りない前の段階でクリエーティブなことをやれというのは難しいかもしれません。
だからと言って,飽食のなかからすばらしいクリエーションが生まれてくるのだろうか。そういうときはものすごくわがままで,自分さえよければいいという暴君ネロのようなクリエーションが見られるのではないだろうか。もう少しやわらかにいえば,いわば旦那芸というやつですね。
間違っていたら教えてください。基礎研究が大切だと言いますね。確かに私もそれは大切だと思います。しかし基礎研究のタネというといっぱいあるんですよ。そのなかのあのタネを選ぶか,このタネを選ぶかということは,研究する人間の社会的価値観に支配されると私は思うんです。研究者自身が社会にとって何が大切かという問題意識をどこまでもっているかということですね。大きな基礎研究をやった人は,しばしば非常に大きな現実的要請に迫られているものです。
例えば,北里柴三郎の例を申しますと,明治の初め伝染病は日本では非常に大きな社会的な病気だったわけです。それを何とかしなければならないというのでヨーロッパに勉強に行っています。コッホのところで勉強しています。そのなかで彼はいろいろな細菌を見つけたのです。そういうなかで彼は世界で初めて免疫療法を見いだすわけです。それは彼の社会的意識と無関係ではなかった。ですから,基礎研究はあながち基礎だけやっていればできるというものではなくて,あれを選ぶか,これを選ぶかということについての研究者自身の価値観,社会観が少なくとも半分は影響すると思うんです。
司会 ほかに何かございましたらどうぞ。
早川(能開大校長) いま確かにアメリカが科学技術の中心になっています。私がアメリカに行ったのは戦後12年たって(1957)からですが,戦前ですと留学といえばドイツかフランス,理工系でもそうだったと思います。それがいつの間にかアメリカに移ったのは,アメリカがドイツに戦争で勝って技術を移転したからではなくて,やはりそこに創造の種ができてきた。
もう一つにはフルブライトで日本からアメリカへ行ったなかで,アメリカの余裕から出てくる基礎研究そのほかの実態を見てきたと思うんです。戦争が終わってからあとの段階,技術が進んで経済がある意味で楽になっていったことが背景にあるのかどうかということについて,戦後のアメリカの変化について一言教えていただければと思います。
飯沼 経済的にアメリカが十分な力を持つようになるのは1900年の初めです。しかしながら,まねをしようにもまねをする相手がなくなってくる時期はもう少しあとの時代だと思います。第1次世界大戦は1914年とか18年とかそのへんでしたね。この戦争でドイツもイギリスもフランスも焼け跡になってしまいますから,もはやヨーロッパに勉強しに行っても何もないよ。米国も自分たちでやらざるを得ないという認識に立つわけですね。
第2次世界大戦ではまたそれに輪をかけたような状態です。だから,クリエーションというものに関して,アメリカ社会は自分たちが背負わなかったらしようがないという歴史段階に立ち至ります。もちろん,米国人が意識としてそういうことを思っていたかどうかわかりません。しかし,米国社会を外側から見たときに,もはやアメリカにとって模倣すべき対象がなくなったのが,第1次大戦から第2次大戦にかけての時代だということは言えると思います。
早川 第2次世界大戦前に,まだ日本がヨーロッパを見ていたということは遅れていたのか,それ自体模倣的なのか,どうなんでしょうか。
飯沼 さっき言いましたローゼンバーグが書いている言葉を日本流に翻訳すると,1900~1940年ころの米国には,絶海の孤島のごとくにしかクリエーシヨンの拠点はなかったといいます。カリフォルニアにあるスタンフォード大学を現在知らないという人は少ないと思います。ここにはノーベル賞学者がいっぱいいますから。
ところが,1930年ころ,デンマークのボーアの研究所に逃げてきたドイツ人の若い学者に,このスタンフォード大学からうちの教授になれと招聘状が来るわけです。しかし,この手紙を受けとったほうはスタンフォードはどこにあるんだと1時間半地図で探し回ったというんです。つまり,スタンフォード大学というのはそんな田舎の大学だったわけです。したがって,戦前の日本の大部分の学者がアメリカへ留学したのではなくてヨーロッパに留学したことはごく当たり前の話だったと思われます。
早川 これから日本でもそういう大学がいっぱいできて,発展する可能性は十分考えられますか。
飯沼 ゴマをするような話になるかもしれませんが,ここの大学にもそうなる資格はあると思います。
少なくとも東大とか京大は明治以来,模傲の体系でがっちりとできあがった大学です。それに比べますと,ここはその歴史がない,未完成なだけにチャンスはあると思います。もちろん,それは皆さんの自助努力によるところ大だとは思いますが。
司会 どうもありがとうございました。時間もまいりましたので,これをもちまして本日の特別講演を終わらせていただきます。どうもありがとうございました。(拍手)
(注1) 『われら,創造の世紀へ』 飯沼和正,日刊工業新聞社,1994.
(注2) 『模倣から創造へ』 飯沼和正,東洋経済,1968.
本稿は第3回職業能力開発研究発表講演会の特別講演の録音を編集部でまとめたものです。