以上のように紡績工場で必要なすべての項目で,2年間の能力開発カリキュラムを組み,スタートすることになった。
P.T. INDONESIA ASAHI CHEMICAL INDUSTRY(通称P.T. INDACI)は1973年に設立され,アクリル合繊紡績・染色・ナイロンフィラメントを製造する工場で,約1,500人の現地従業員と8人の日本人で運営されている。
事務,検査,食堂等は女子,製造関係は男子従業員で4組3交替勤務である。
通勤は会社のバス9台で45分~1時間圏内から送迎されている。
工場立地は,インドネシアの首都ジャカルタから東へ約130㎞(うち約75㎞を高速道路)で,車で約1時間半,PURWAKARTA(プルワカルタ)という田舎町のはずれで,35年以上前にフランス人の手で作られた発電用人造湖(ジャライルフール湖)の湖畔に位置している。
23年前に現在の1/3の規模,合繊繊維(アクリル)100%の糸を紡績する設備でスタート,その間増設が行われ,あわせて天然繊維との混紡糸,差別化品の製造が増えている。その変化の過程で少しずつ歪みが蓄積され,この歪みを是正するのに,加工条件変更と作業者の作業方法,作業量にしわよせされ,リズムが崩れている。また,製造品の変化により各工程間のバランスが崩れるとともに,混紡糸,差別化品の割合増で,多品種,少量生産が進み,品種チェンジによる効率ダウン等々が目につく。
一方,管理体制に目を向けると,日本で幾多の改善を加え完成された最新のシステムが各部に導入されている。その多くがいきなり導入されたフシがある。管理する方も,管理される方(表現が適切でないかもしれないが)も内容の理解が深まらないまま,段階を経ないまま,現状を直視しないまま,一言で表現するなら「システムに魂が入っていない」のではないかと映る。
人の面では,程度の差はあるものの,待ちの姿勢がみられる。各々の立場で上から与えられること(指示されること)を待っている。失敗を恐れているのか? 責任感の欠如か? どこから学んだのか?(まさか日本人から学んだのではないと思うが)はたまた生きるための生活の知恵なのかもしれない。いずれにせよすべてのクラスで待ちの姿勢と,結果に対しての言い訳は,天才的なものを感じる。聞くほうも,取ってつけた言い訳を黙認している。
インドネシア語学,社会生活適応および工場内の現状把握に2ヵ月以上を費やした。
何から手がけていくか相当迷った。現状把握から迷いに迷ったあげく,頭にストーリーを描き,紡績工場の幹部に大きく発表した(もちろん通訳つきで)。ストーリーの内容は,以下のとおりである。
※現在,この工場で最大のテーマは,品質の向上であり,品質の向上なくして生産量のアップ,収率アップ,作業者の作業量軽減はあり得ない。
※品質アップすれば,必ず効率アップ,収率アップし,作業は楽になり,生産量アップは後からついてくる。
※品質アップをするには,次の4項目の改善が必要。
以上の構想発表と同時に「このことを進めるために私はみんなのお手伝いをします」と伝えた。
続いて,4項目を項目ごとの関係者に集まってもらい,詳細に説明し,理解をしてもらうようにした。
このとき一番抵抗が大きかったのが,「加工条件の見直し」であった。生産企画担当,製造部門責任者で紡績部門マネージャー,製造課長,係長,生産計画課長と,勤続10年以上,年齢も40歳以上,経験も豊富である。その分,頭も相当固くなった面々である。
私の説明に対して,彼らの言い分は,「工程ごとの生産バランスが崩れてしまう」「現状の生産量が確保できない」「絶対に生産量が落ちる」等々,絶対という言葉まで出る始末である。
これに対して,質問を投げかけた。「現在の屑量は?」「収率はいくらですか?」「トラブル件数はどのくらいですか?」「停台(稼働率)状況はどうですか?」「作業者1人で何台の機械を受け持っていますか?」「工場長が各項目で皆さんに期待しているターゲットはいくらですか? それを達成できていますか?」,みんな渋い顔ばかりであった。
各工程の糸種別適正加工条件を説明し,モデル糸種で実験することにした。加工条件は基本に忠実に設定し,各データを集計してもらう。第一工程から順次つきっきりで工程を追った。各工程の作業方法についても自らやってみせ,紡出状態も自分の目で確かめながら……。結果は上々で,データを集計するまでもなかった。作業者に状態を聞く。「調子が大変いい」「トラブルなし」「作業が大変おいしい(直訳)」とのことである。
作業者が変化を肌で感じている。スタッフのデータを見たが,精紡機での糸切れ30本/時間が半減し,15本/時間となっていた。しかし,このデータは今後の通過点でしかない。
「機械のチョコ停改善」では,当工場が以前から進めていたUsper(ウースパー)制度というのがあり,この制度を利用した。この制度は,誰でも作業中に見つけた,出くわした不備な部分を証票に記入して,不備箇所につける。整備班の人が,不備箇所に手を加えて修正する。証票の色を変えて,「ちょこっとした停台」を記入し,機械につける。これを保全のメンバで原因を調べ整備する。
作業方法の改善,掃除の徹底は,職長さんを中心に,作業者が持ち場ごとに責任範囲を決め,相互にチェックしながら進めた。
一連の指導で特に気をつけたことと,自己の得た教訓は,次の事柄である。
続いて,ゲームを取り入れた指導訓練を試みた。宿舎で購読している週刊誌の「間違い探し」ページをヒントに利用した。
作業者には,日常作業中に見る,出くわす不具合箇所をより多く指摘してもらうために,また職長,リーダには日常発生している問題点をより早く問題として把握,認識し,問題意識を持ってもらうために,正常異常を見分ける訓練を行った。
作業者は2~3人で間違いを探してもらった。中間管理者クラスでは,最初に個別に図柄を渡しての間違い探し。続いてグループで行い,始めに正常な図柄のみ与え,3~4人で記憶してもらい,次に間違い図柄を与えての間違い探し。いずれも興味を示し,真剣に取り組んでいた。図柄の選択を皆が興味深いものにしたことも,盛り上がった要因であった。
次に職場内での指示,連絡が徹底されてなくて,指示連絡したことが正しく行動されていないことが多くみられ,これによるトラブルも多い。このため,正確な行動ができる指示連絡の出し方,受け方を指導する必要が生じた。これをゲームの中で体験してもらうことにした。伝言ゲームも考えたが,行動が入ってないので,少し工夫した。
○,△,□等の図柄を厚紙で20組用意し,各人に1組渡す。5人でチームを組んでもらい,各チーム1番目の人が部長,2番目の人が課長,以下3番目係長,4番目職長,5番目作業員とする。このときばかりは,私が社長である。
社長室で社長から各部長に作業指示を出す。この指示とは,4つの図柄を机の上で組み合わせるだけである。各部長は,図柄組み合わせの指示で,不明点があれば,社長に聞いてもよい。指示を理解したら,部長室に入って各々自分で作業(行動)する。終わったら部長室を出て,課長に口頭で指示を出す。課長は自分で作業(行動)し,終わったら課長室を出て,係長に指示を出す。この繰り返しで作業員まで進む。各室には,作業(行動)そのものが残っている。最後に各チームで,ポジションごとの作業成果を確認する。一度終わったらチームごとのミーティングで指示の出し方,受け方を話し合い,工夫を加えて,二度めに挑戦する。3回,4回と繰り返し,最後は時間制限をつけて成果を競ってもらった。
「正しい行動に結び付く指示の出し方,自分で行動できる指示の受け方は,どうあるべきか」の理解は深まっていった。
その他2年間に多くのことを試み,受け入れられた技法もあれば,全く受け付けられなかったものも多くあった。
「情熱を持って事に当たり,医師,看護婦さんの気持ちで接するならば,どんな人にも通じる」。
この体験は,私にとって大きな収穫であった。
首都ジャカルタから約130㎞離れた(車で1時間半),片田舎の町プルワカルタ,その町はずれウブルク村のチビノン地区。湖を見下ろす丘に工場があり,徒歩で7~8分のところに日本人の単身者用宿舎がある。
宿舎の庭からは,ヤシの木を頭越しに,湖を見下ろし,朝夕の景色は素晴らしく,心が洗われる思いである。ただ,洗われすぎるきらいがある。年中変化がない。変わるのは,湖の水位と夕日の沈む位置だけである。
宿舎裏には,チビノンの集落があり,6~7年前に電灯がついたとのことで,各家々は200~300Wくらいの消費量である。
日本でも以前は,生活の声があった。今はほとんど音に変わってきている。ここチビノンでは,30~40年前を思い出させてくれなつかしい。ニワトリやヤギの鳴く声,母親が子どもを叱る声,お祈りの声等々。生活の匂いが漂う。あらゆる声が残っている。田舎者の私は,こんなチビノンが好きである。村の人は素朴であり,人なつこい。
インドネシア語の先生は,村の人,村の子どもたちである。筆記用具と駄菓子を片手に,一歩村に入れば語学の先生には,困ることがない。夕方になると,宿舎の門で4~5人の先生が,私の帰りを待っている。会社の帰りでは持ち物が違うので,早く家に帰って持ち物を変えてこいとせがまれる。授業料は安いこと,安いこと。1回につき300~500RPの駄菓子代である。私も少々気がひけて,鉛筆,ノートを買ってやる。次から次へと先生は日ごとに増えて,どうにもならない。まとめて面倒みるかと,300組の鉛筆,ノートを区長さんに渡しておさまった。
あるとき,ひょんなことから子どもが私に「ウソつき」と言った。大人げもなく,本気で怒ってしまった。「日本人は絶対にウソはつかない」,今思い出せば恥ずかしい。
これがきっかけで,区長の家に文句をつけに行った。「村の子どもが日本人に嘘つきとは何ごとか,今まで日本人で嘘を言ったものがあるか。日本人は嘘など言わない」。区長は平身低頭であり,お茶まで出してくれ,話はおだやかになった。子どものしつけは大人の責任とかなんとか……。このとき通訳を連れて行ったので,大きな狂いはない。そのうちに話がはずんで,村の青年がサッカーボールがなく困っているとのこと,「村の青年が子どものしつけをするなら,ボールを買ってやろう」ということになり,日曜日にジャカルタまでサッカーボールを買いに行った。3個買って6万RPくらいだったと記憶している。
「ウソつき」からチビノン地区にサッカーチームができた。水を得た魚のごとく,毎日広場でボールを追っかけている。会社にお願いして,空いているときは,会社のグラウンドを使用させてもらった。
みるみるうちに強くなって,近隣の村と試合をしても,負け知らず,そのうちチームの名前をつけてくれと言い出す。エイッヤァーと「チビノン,フジヤマ」に決定。ユニホームも約20万RPかけて作った。試合のあった翌日,会社から苦情がきた。グラウンドの汚れがひどいという。試合の都度,村の人が応援,観戦で300~500人は集まり,屋台も4~5軒は出る。ほとんどが日曜日の夕方,私は,ジャカルタ方面に出るため知らなかった。その後,試合のある日は早めに帰って,ナイロン袋を持って観戦し,終わったら自分のまわりのゴミを拾って,様子を見ることにした。まず選手が,そして帰りかけていた区長が引き返して,最後は子どもたちも……。
今では,ゴミ袋の準備だけで,使用前よりきれいになった。近くの村への遠征試合に出る前に,ゴミ袋だけは渡すようにしている。トラックの荷台にチーム旗をひるがえし,黒山の人を満載,その中にゴミ袋だけは忘れないでと願っている。
区長や村の青年には大変お世話になっている。広い宿舎の一画にヤギ小屋を作ってもらった。それも瓦屋根の高床式である。村の人に3頭分けてもらい,最初の1ヵ月間は小屋から出さず,宿舎のボーイから草をもらい,私は食堂で残ったインドネシアで特上のチアンジュール米ご飯をやり,朝夕ブラシをかけてやり,丸々と太って,村のあちこちで遊んでいるヤギとは格段の差がある。そのうちに木戸を開けてやると,宿舎敷地内を自由に遊び,草を食べて夕方には小屋に帰ってくる。私のヤギは,宿舎の夕食で酒の肴によく上がる。ヤギに名前をつけろとうるさい。花子,モモ子,ケメ子等々。酒の力は恐ろしい。ついた名前が大きい順に「オイ」「コラ」「ドウシタ」。酔っ払いどもは得意になって,素晴らしい名前だと言いながら,また一杯。飼い主の私は酒がからっきしダメで,酔っ払いどもに押しきられてしまう。
そのうちに「花壇に植えた花の若茅をヤギに食われた」「玄関先に糞をしている」等々,苦情が殺到する。
ヤギのしつけは十分にやっている。ここはインドネシアであるので,皆さん都合の悪いところは垣根をして下さい,垣根のあるところには絶対に入るなと厳しくしつけます。それでもだめなときは,最後の切り札「皆さん名づけ親につき大目にみてやってください」。
これにて一件落着。酔っ払いもこれには二の句も出ない。約7ヵ月でお産するヤギも10頭になった。私が帰った後は,サッカーチーム「チビノン,フジヤマ」の維持運営の財源となってくれるであろう。
私を育んでくれたチビノン地区の人,総出の見送りの中,後髪をひかれる思いで,インドネシアを後にした。