• 『技能と技術』誌30年記念座談会

■出席者

早川宗八郎  職業能力開発大学校長

越丸  肇  日産テクニカルカレッジ校長

清水 二郎  山形県立産業技術短期大学校長

田中 清勝  関東職業能力開発促進センター所長

■司会

秀島 寛美  職業能力開発大学校研修研究センター所長(本誌編集長)

役目と役割

秀島 『技能と技術』誌は, 昭和41年11月に創刊号を発行し,今年でちょうど30年になります。30年続いたことについては,職業能力開発関係に携わっていらっしゃる方々のご協力,ご支援があってのことだと感謝しています。そこで,今回この30年記念誌で座談会を企画しました。

今回は,指導員の養成を行っている本校の校長,能力開発施設の第一線で指揮している所長,校長さんにお集まりいただき,『技能と技術』誌の役割と問題点等について,30年を振り返りながらお話しいただき,また今後『技能と技術』誌が皆さんの役に立てるものとなっていくためにはどうあればいいかなどの話をうかがえれば幸いです。

役目と役割を考えたとき,創刊の思想をひもといてみました。当時の労働省職業訓練局の和田勝美局長,雇用促進事業団の万仲余所治理事長,本校の成瀬政男校長,それぞれに非常に熱のこもった意気込みが感じられます。当時のわが国の高度経済成長期における技術革新の中において人手不足,特に技能者不足があり,その中で職業訓練がひのき舞台に立っていたということがあると思います。その中で,職業訓練の中身と質をどういうふうに仕上げていけばいいのか,指導員はどういう資質を持っていればいいか,当時は確立されていない時代ではなかったかと思います。

そういう意味で,指導員の手助けができるような内容で,訓練内容の充実と訓練を担当する方々の資質の向上という大きな目標,目的を持って『技能と技術』誌を創刊,発行することになったとうかがえます。30年続いたということで,これはひと区切りだろうと思います。例えば企業でも,30年たったら一つの見直しが必要ともいわれているようです。

この『技能と技術』誌がどういう役割を果たしてきたのか。技能と技術が変化する中で,職業訓練の中身も変わってきた。まず,そのへんの役割から入っていきたいと思っております。

田中所長は長年第一線の指導員の経験もありますし,『技能と技術』の編集のほうのお仕事もしていらしたので,はじめにそのへんのことをお話しいただきたいと思います。

田中 私は公共職業訓練施設に関係していますから,公共職業訓練施設の立場からお話をしたいと感じています。私が入社したのは昭和40年で,その翌年に『技能と技術』誌が創刊されました。私はその当時,指導員をしていましたが,しっかりとした参考図書がないというのが現状でした。難しいものはあったんでしょうけれども,自分でかみ砕いて理解し,それが使用できる参考図書がなかなか見当たらないときに,この『技能と技術』誌が創刊されました。目的は指導員の資質の向上で,教え方から始まりまして,現場に近く,非常に参考になったという覚えがあります。

先ほど,ちょうど30年というお話をしていましたが,おかげさまで私も30年表彰を受けました。そういう意味では『技能と技術』と一緒に歩んできたかなという感じです。その間,常に机の片隅には必ず置いてあるという存在の雑誌だったと思います。ずっと自分で使ってきて,それから職種転換をし,指導員から事務方に移りましたが,他の先生方を見た場合,ややもすると配られたものはポイという感じがありますが,『技能と技術』は絶対に捨てられない存在でした。常に置いてある。まず1回見る。自分の関係あるところには,必ず付箋がはってある。そういう流れできていると思っております。

その後ずっと職業訓練施設を歩いていますが,だいたいそのような状況です。内容がだいぶ変わってきているのも事実だと思います。これは最後のほうで討議するのでしょうが,最近の『技能と技術』は前とは変わってきた感じがしないでもありません。

私は,6年前に能開大に勤務しました。早川校長先生にもお世話になりました。ちょうどそのときに全国をブロック制に分けて,委員会を開いて,事業団の職員,県立の職員等も含めて委員会制度になりました。これも一つの変わり目で,それでまた内容も少し充実してきたという感じもあります。こういう専門雑誌は,いつまでたっても資質の向上をずっとやらなくてはいけないものですから,ぜひとも続けてほしいと思います。

ここでこの30年間における技能者・技術者養成と訓練施設とのかかわりの変化ですが,特に私は公共職業訓練施設ですから公共職業訓練施設における訓練目標がございました。これは時代によって常に変化してきておりますし,私たちの果たす役割も,労働市場の状況や経済社会の動向によって大きく変化してきていると思います。

歴史的に言うと,まず昭和22年の職業安定法です。そこで行っていた職業訓練は失業者の職業補導です。それからもう一つ,昭和22年にできた労働基準法の中では,企業内での技能者養成です。戦後,ずっとこの2本立てで動いてきています。

昭和33年には職業訓練法ができました。いままで上記2法により別々に行われていたものを,工業その他産業に必要な技能労働者の養成を図るためにというのが大きな理由でした。昭和33年になって高度成長になり,技能者,労働者が不足する人手不足の時代になりました。だから私たちがいま行っている仕事は,昭和33年の職業訓練法がまずスタートだと思っています。特に技能者養成が望まれた時代です。

背景を見たときには,鉄鋼や石油化学工業を中心に大規模生産,大量生産,生産の自動化が非常に進歩した年代でした。東京オリンピックもありましたし,新幹線もありました。それがずっときまして,昭和44年に大きな改正がございまして,いままで二つに分かれていた公共職業訓練と事業内訓練が一つにされました。経済は,一応安定成長でずっときています。オイルショック,ドルショックもありましたけれども,一応安定期に入っています。雇用情勢が非常に深刻化したのもこの時代です。

職業訓練をますますやりなさいという時代が昭和44年で,『技能と技術』誌が創刊されてまもなくのときからずっと追ってきたという感じがしています。訓練も養成訓練,能力再開発訓練,向上訓練が大きな目玉でした。他に指導員訓練も当然ありますが,こういう四つの柱がドーンと立てられました。養成訓練の中には専修訓練課程と高等訓練課程というものがありました。専修課程は一般の単能工養成で,高等訓練課程は多能工養成です。単能工ですから一般的な技能労働者の素地を与えるという感じで,片方は多能工の感じでした。

そういうものがずっと続いていったあと,昭和50年に施行規則が改正になり,特別高等訓練課程ができました。これが,いまの短大の前身です。これは腕と頭とを兼ね備えたテクニシャン養成です。このへんからが,知識的なもののほうがより入ってきた時代だと思っております。

53年になると,オイルショックのあと非常に景気が後退して雇用情勢が悪くなりますが,そのときに53年法で,民間活力の導入をしました。私たちの公共職業訓練施設で専門学校や事業主の委託訓練が始まったのもこの時代です。

それから,いまの中央職業能力開発協会ができたのもこの法律だったと思います。県の立場と雇用促進事業団の立場の住み分けをしたのも53年法です。住み分けをされた雇用促進事業団は職業訓練短期大学校か技能開発センターかどちらかをやりなさいということで,一応県立と国立というんですか,団立を分けたのが53年です。

昭和60年になるとME化の技術革新が非常に進んだ時代,高齢化,サービス経済化,国際化が言われた時代になります。たまたま私はこの法律改正の仕事をやらせていただきましたけれども,こういう四つの大きな目玉がこの時代の背景で,それが昭和60年の法律改正に結びつきます。このときから,職業訓練法が職業能力開発促進法に変わりました。

いままで小さい意味でとらえられていた職業訓練を,大きな,広い意味にしたのが職業能力開発促進法でした。それまでは,私はホワイトカラーの訓練はあまりしたこともございませんでしたが,60年からはホワイトカラーも含めた幅広い職業能力開発ということが言われてきたと思います。そこで私たちの公共職業訓練施設は,地域ニーズに合った弾力的なものをやりなさいと言われたんです。それまでは訓練基準でピシッと縛られていまして,何を何時間までと決められていました。ここを全部はずしたのが昭和60年の法律で,非常にやりやすく,地域ニーズをとらえやすくなった時代です。

その後,平成5年に一部改正がございました。今度はそれをもう少し変えて,職業訓練を効果的・効率的に行うためにはどうしたらいいかということで,習得させようとする技術や技能を期間や程度によって分けたのが当時です。それが,いまの流れです。特に公共職業訓練施設は,公共能力開発施設と名前も変わって総合的センターとしての位置づけがされました。中身は,職業訓練の実施は当然ですけれども,事業主と事業主団体等に対する相談援助が主な大きな柱になりました。

もう一つおもしろいのは「職業訓練とは」という昭和33年の職業訓練の目的があります。これは「労働者に対して必要な技能を付与する」ですから技能です。昭和33年の法律の目的は腕の訓練で,ここには頭は入っていなかった。労働者に対して必要な技能を習得させたんです。

それから44年になりますと「技能労働者の職業に必要な能力を開発していく」ということで,技能から能力開発に変わりました。これでは,技能にプラスして知識が非常に増えてきています。53年が本格的だと思うんですけれども,「職業に必要な労働者の能力を開発していく」ということです。ですから法律の目的を見ますと,33年,44年,53年とこう変わって,53年以降は同じです。ですから,法的に技能プラス知識が完全に植え付けられたのが53年だという感じがしております。

公共職業訓練施設が法的な流れに応じて,それぞれの訓練課程等をその時代に応じて心がけてきたということがあります。

秀島 いま田中所長からは,法改正に絡んで訓練の理念が変わってきた,一応公共訓練の立場からのお話でした。越丸校長のところは,そういう流れの中で企業としての訓練の歴史もあろうかと思いますが。

越丸 私どもは民間ですので,やはり企業の中で即実践に役立つ職業訓練として,ずっとあったのではないかと思います。現在あるテクニカルカレッジは1987年に創立したんですけれども,その前は1984年に,座間工場の中に電子技能訓練センターが設置されました。

その中で行われていた電子・電気という専門学校としての性格がだんだん発展してきて,87年に労働省の認可をいただきまして,学校として成立して今日に至っているわけです。私どものそこでの技能は,いま申し上げましたように電気・電子に非常に特化していましたが,実はその前の時期に,私どもが日高校と呼んでいる日産高等専門学校というものがありました。それは技能員の養成所で,30年ぐらいの歴史をもった訓練校でした。

私どもの社内には,現場で実際にものを作る技能員がたくさんいますが,その技能員の指導層としての役割が期待されるような人間を出すための訓練校でした。彼らが私どもの会社の発展に寄与した功績は非常に大きゅうございました。訓練校卒業ですから,中学校を出た人間を最初は2年間訓練いたしまして,すぐ現場に配属しました。

そのときの私どもの職業能力開発といいますか,技能訓練のあり方は,技能だけではなくて,例えば英語を教える,国語の力,読み書きの力を向上させる,数学を教えるといったものも相当なウエイトを占めていました。ですからある意味では,非常に総合的な高等学校としての役割も担ったところでした。

その中でわかったことは,現場の中核になる人間を育てるということは,企業に対するロイヤリティーの醸成がどうしても欠かせないということです。しかしそのロイヤリティーの醸成も,やはり彼らの評価が伴って,初めてロイヤリティーにつながります。先輩たちがこのように評価されているから,われわれも頑張っていこうじゃないかという動機づけが,訓練生にはたくさんありました。今日に至るも,われわれの会社では,技能を評価するとはどういうことかという議論を,ずいぶんみんなでしているんですけれども,やはり処遇につながるというところが大事ではないかと思っています。

実は私どもでは,現場の職制を工長,係長と呼んでおります。工長というのは,現場の一つの単位の長でございます。

現在はちょっと縮小しましたけれども,平均すると20人ぐらいのグループを1人のフォアマンが括っています。そのフォアマンが4~8人ぐらいいるグループを率いている係長という職制がございます。工長,係長という現場の職制に至るプロセスは,この訓練校を卒業した人間が非常に早いスピードで上がるというのが,私どもの常でした。これは,当初からそういう人たちが数として非常に多かったこともありますが,やはり2年間の訓練課程で身につけたものが会社の仕事に非常に直接的に役に立つ体系になっていたことが,かなり大きいのではないかと思っています。

それから年を経て,2年制の訓練校が3年制になって,今日の私どもの短大につながっているんですけれども,私どもの短大では,やはり職能の核となる人間の養成が中心の課題に掲げられています。今度は,普通高校あるいは工業高校から私どもの会社の現場に入社した人間,あるいは私どもの関連会社にも門戸を開いていますので,関連会社の現場に入った人間が,2年間以上の職務経験を経て入学してきています。

そこで私どもが心がけている基本は,即役に立つ技術・技能の伝授だけではなくて,日産高等専門学校の流れをくんだ全人的な教育といいますか,私どもではハイテクノロジーとヒューマニティー,《H&H》と称しておりますけれども,ヒューマニティーの部分が非常に重要であるという位置づけをしております。少し見方を変えますと,あらゆる技能訓練の前提としてヒューマニティーがあるという考え方です。そのへんが,私どもの特徴であろうと考えています。

一方,そういったヒューマニティーを2年間でしっかりと身につけさせるプロセスで,やはり技能と技術をしっかりと身につけてもらわなければいけないわけですが,この目的としては,学んだ技術・技能を利用して職場の改革を常に心がけられるということを旗印に掲げています。職場の改革というのはおおげさですけれども,改善という言葉も職場の中には非常に定着しています。それは小改善が中心になっています。

私どものカレッジの卒業生に期待するところは,その小改善もさることながら,もう一つ上に立って,むだなものがあったら取り去ってしまおうではないか,むだなものを残したまま改善すると,悪いものが悪いなりに改善されてそのまま残る,それはやめて悪いものは取って新しいものを考えたい,そういう技術・技能を身につけていってもらいたいということで,それがハイテクノロジーの大きな目的です。したがって,改革というちょっと口はばったい表現を使っていますが,目的はそういうところにあります。

こういう目的のもとに,ある意味では,われわれが望んでいる卒業するときの人材像はそんなところに置いているんですけれども,そういう人間を育成していくために教職員はどういう訓練をしていかなければいけないかということがあります。

実はたいへん恐縮で申し訳なかったんですけれども,『技能と技術』誌につきましては,私は毎回いただいてはいても実は積ん読で,あまりしっかりと目を通したことはなかったんです。

私どもの先生たちは,多くの先人の皆さま方が発表している論文の中に,教え方という点において非常に示唆に富んでいるところがあるということで,ずいぶん利用させていただいております。『技能と技術』の利用の仕方としては,私どもはけっこう使っているということをぜひご報告したかったこともあるんですけれども,これからは私どものノウハウも使っていただける方向に何とかできないかと考えております。

私どもの先生のあり方として,常に最先端の授業をしていきたいという気持ちがあります。つまり,職場はどんどん変わっていますので,常に職場の流れに遅れないように,人材のローテーションを3年ぐらいで行っています。そうすると,先生としての3年間の蓄積で,教えるということについてそろそろ自分で論文をまとめられる力がついたころにはローテーションということで,そういう点ではあまり好ましくないところがあります。

ところが一方,職場にフィットする卒業生を出すためには,常に新しい,フレッシュな情報をもった人間が先生を務めることがとても大事です。このへんをうまくバランスを取りながら,教えるということに関するノウハウを蓄積すると同時に,時代にマッチした人間を輩出できるような教育を常にリフレッシュしていく教員の姿という感じが,われわれとしてのこれからの課題ではないかと考えています。

秀島 いま田中所長と越丸校長から,それぞれの公共訓練,事業内の訓練の歴史を含めてのお話がありました。早川校長,どうでしょうか。『技能と技術』の役割ということでいきますと,そういう流れの中で,指導員の方々がそうとう蓄積しなければいけないという意味で,この『技能と技術』は学術論文みたいな難しい表現ではなくて,だれにでもわかりやすい平易な文章で投稿してもらい,各担当している指導員の方々の研究を惹起するということも,一つの大きな目標ではなかったかと思います。

そういう意味で当初は,当校の先生方に主に自分たちの講義内容や研究をこれに載せていただいて,啓蒙していただいたところがあります。そのへんについて,いかがでしょうか。

早川 能開大ができまして,もうすでに35年の歴史があります。昭和36年にできて,40年に最初の卒業生が出ました。41年から,ちょうどこの『技能と技術』が始まっています。もう一つ同じ年に,たいへん大事なこととして訓大研究発表会というものが始まっています。それが数年後には,いま行っている職業能力開発研究発表講演会になっていきます。

能開大が職員養成,研修ということを目的にして,だいたい体制が整うまでに5年かかったと思いますが,能開大に十分スタッフがそろい,目標も決まり,まず何をすべきかというときの基本のテーマが技能と技術ではなかったかという感じがするんです。普通の工学教育なら,すでに工科大学その他が歴史を持っていて,パターンがありますから,それと同じものを行うのではない。職業訓練というのは公共としてはこういうことをやろう,それの教員をどうしよう,それを作るために本校としてどういう教育をしたらいいかという指導員像の問題があります。

それにはどうしても,片や工学,技術というものがありますので,新しい教育対象は,普通の理科教育をやるのでもないし,工学教育をやるのでもなくて,技能教育をやるといったときに,技能を教えるにはどういうことをしなければいけないか,またどういうことを指導員が資質として持たなくてはいけないかという問題になったと思います。

そのときに,技能と技術の関係を何とかはっきりさせていこう,それと同時に技術教育と技能教育の相違あるいは相似点をきちんと考えていこうということがありました。初代の成瀬先生などは,職業訓練学とでもいうような,あるはっきりしたシステムをお考えになろうとして非常に努力をなさいました。技能はこうあって,技能教育はこうあるべきだ,指導員はこうなくてはいけないというので,このカリキュラム等をお作りになったし,それに適格な先生方をお集めになったんだと思います。

それから法改正等のお話がありましたけれども,当然職業訓練,能力開発教育の内容は次々と変わってきています。そういったときに,自分たちが指導員養成をやろうと思っている先生たちが,どういう研究をやったらいいのかということについて,片方では研究発表会というかたちでやりながら,片方ではもっと現場にいる先生方に役に立つものを,あるいは職業訓練学がだんだん構成されていくプロセスで啓蒙的,解説的な記事を用意していこうということで,『技能と技術』ができてきたと思います。だからそういった意味で,非常に中心的な役割を果たしてきたと思います。

ただ,30年振り返りますと,私はいつもこう言ってうちの先生方にひんしゅくを買っているんです。「30年間,能開大は怠慢だった。職業訓練学のシステムを作り上げるべきであったが,いまだにできていない状態ではないか」と言って,はっぱをかけたりしていますが,それにはやはり技能と技術の関係が30年でずいぶん変わってきたとも思います。

最初は,それこそ技能というのがものづくりのいちばん基本にあって,旋盤を使ったり,溶接を行ったりするということで,技能労働者というカテゴリーについても何となくわかる。要するに中卒が「金の卵」といわれたときの,労働者が少なくなった状態を反映しているんですが,だんだん技術の進歩が進み,そういう部分をカバーするために,技術がどんどん技能といわれている部分に入ってきました。特にME化が進んでくると,技能はどういう役割をするのか,どう定義づけたらいいのかということが,労働行政全体の問題でもあっただろうと思います。

ですから私は,この本はたいへんうまい題をつけたと思います。技能と技術は違うとも一緒とも言っていないし,そうかといって非常に似たような言葉だとも言っていません。ですからおそらく時代によって,技能が技術と明確に,しかも訓練システムの中で分離できたり,先ほどの法律の用語ではないんですが,分離できないので技能労働者の能力というとらえ方をしてみたり,最近では技能と技術を一緒に使ってしまって,あまり区別しないという流れにまでなってきています。

そういった意味で,この『技能と技術』という雑誌がずっと抱えてきた問題は,それぞれの時代背景を持ちながら進歩してきていると思います。もちろん能開大のカリキュラムで考えれば,内容そのものは5,6年にいっぺんずつ変えていかなくてはなりません。それは先ほど越丸先生がおっしゃったように,3年ぐらいで変えないとアップ・ツー・デートの技能は教えられないということで,そういった意味で何年かごとに変えなくてはいけないんですが,能開大では,やはり技能と技術の関係をいつも念頭においた教育をしていなければなりません。

これは本校の大多数の先生方が考えているんですが,私は,その理解は少し幅が広くていいと思います。ある程度分離して考えられた技能と技術という意味の技能と,割合近い,あまり区別がない,つまり人間がかかわる部分は技能と考える程度の技能と含めて,指導員の持つべき素質の教育をしていこうというふうに幅を持ってもいいと思っています。また,電子工学のようなところと機械加工のようなところでは,その幅の違いがあって当然だと思います。

ただ,それら全部を含めて指導員養成という教育システムとして,きちんとしたかたちを作りたいと思っております。これからの技能・技術をどう考えたらいいのかということにつきましては,またあとで,そこにテーマが展開したときにお話しさせていただきたいと思います。

秀島 技能と技術は時代が変わると同時に内容も変わってくるということで,指導員,スタッフにとっても非常にいい雑誌ではなかっただろうかというお話でした。越丸校長からは,特に内容的にも指導の方法が非常に参考になって利用されているのではないかというお話がございました。

清水先生は,能力開発のほうにお見えになってから長くないですけれども,文部省の技術者教育から見た職業訓練校の能力開発の中で,技能と技術ということを含む中で,この雑誌についてどういう見方をされていますでしょうか。

清水 いま早川先生から,新しい試みとしての教育が行われたというお話がございました。そのときに同時に機関誌を出して,そこに技術と技能という問題を最初から投げかけて,それを常に追求していく仕組みを作ったということを,たいへんおもしろい話だと思って聞いていました。

特に30年間,本誌がそれにどうやって応えてきたのかということになりますと,やはり職業訓練機関の教官はずいぶんいろいろ悩んだろうと思いますが,その中でこの雑誌が一種のナビゲーターの役目を果たしてきたのではないかと思います。そのへんを含めて日本の産業の発展を振り返って考えてみますと,日本の工業発展は,自動車工業でもそうですが,欧米,特にアメリカの技術導入を非常に組織的にうまくやってきたということがありました。

しかし,忘れてならないことがあります。ここのところ発展途上国を回っているんですが,去年の末に中国へ,この春はトルコにまいり,そして,つい先日は韓国に行ってきました。そして気がついたんですが,日本がこれだけうまく構造転換をこなしてきたのは,それに対応できる技術者と現場における技能者層が非常に厚かったからだということがあります。この厚みをどうやって作ってきたかということが,日本の産業発展を解くキーです。

またあとでお話ししますけれども,この雑誌の創刊号の巻頭言で和田局長がお話しになっていることですが,工業力というのは技術だけではやっていけなく,その工業に携わる技術者と,もう一つは現場で担当する技能者の質と量がいちばん問題です。日本の場合には,特に良質の技術者と技能者とが中小企業の中にたくさん温存されていました。

韓国は,ここのところ急に経済的ダウンをしましたが,その理由として韓国には中小企業がないということがいわれておりました。そこに技術者,技能者が温存されていない。そのためにダンパーがなくて,もろにすべてが引っ被ってくるという話をしていました。それでは,日本にそのような層がどうしてできたかということなんですが,その理由として次の二つがあげられると思います。一つは,日本の明治以来の初等,中等教育で,これが非常にしっかりしていたと思います。

私が東工大にいましたときに,アメリカからの調査団の人が来校しました。10年の間に,なぜ日本はこんなに工業発展したんだ,その秘密を探るために工業大学に来たんだというのですが,そのときに私は,「まず見てほしいのは日本の初等教育,中等教育だ」と申し上げました。要するに,日本は90何%がみんな高等学校に進んでいます。戦後の当時でさえ,たぶん100%は中学校を出て,高等学校に30%ぐらい行っていました。

そういう非常に厚い層があったことと,もう一つは,日本の各地に分散した職業訓練組織だと思います。特に戦後の高等教育の改革によって,戦前には中堅技術者として現場を担った高等工業卒がおりましたが,それが戦後,みんな工学部に変わってしまった。その層がなくなって中堅技術者が非常に不足した時代がありました。高等技術専門校は,その不足を補ってきました。

もちろん,文部省もその事態を非常に強く反省し,全国に昭和37~38年に高専を作り,中堅技術者の養成に乗り出しました。

しかし,技術革新の進む中で現場技術者像は次々と変わりました。早川先生のお話だと,第1回の卒業生が出たときに,彼らをバックアップする雑誌を出した。その意味は大きかったと思います。

技術者の質をどう変えていくかがこれからの問題だろうと思います。そういうことはあとの話としまして,やはりそのようにスタンスをしっかり認識して,この雑誌が今日まで引っ張ってきたナビゲーターとしての意味が,非常に大きかったのではないかと思います。

先ほど申し上げたように,創刊号の巻頭言で和田局長が非常にいいことをおっしゃっています。この雑誌が出たときは,日本でいいますと,ちょうど労働集約的な産業から資本集約的な重化学工業が出発した時代だったと思います。そこで三つのことを言っています。

第一は,技能労働力が180万人も不足している,そこでは生産が合理性一本やりに絞られたということです。あのころは多量生産方式をベースにしたものとか造船工業とか,そういう時代だったものですから,同質の技術,技能が量的にも質的にも大切だったということを言っています。

2番目に技能訓練をするには常に技術革新に注目しなければならないと,はっきりと指摘しています。技術の進歩が大きければ大きいほど,その技術を製品にまとめていくための技能が必要である。

3番目に,なぜ変わらなければいけないかということが指摘されています。科学的,合理的,短期間に訓練することが問題であるが,それをどうやって完成しなければいけないか。しかしそれとともに技能が質的に変化して,技能の内容が日とともに高度化していることに常に注目しなければいけないという指摘をされています。ですからそういうものを踏まえて,この雑誌の将来については,あとでまたお話しさせていただこうと思います。

技能の技術化

秀島 皆さま方に十分な,根幹の意味も含めて,それなりの役割を果たしているのではないかというお話をしていただきました。現場においては,指導員の方々に座右の友だちみたいな感じで利用されているという感じを受けました。先ほどからもお話が出ておりますけれども,技能ないしは技術は30年間で非常に変わってきているわけです。そういう中で,例えば基礎技能の伝承の問題,それから最近は技能の技術化ですが,これについては昨年の1号の特集で私どもも取り上げさせてもらいました。

それから,これは言葉は違いますけれどもハードな能力とソフトな能力といいますか。宗像元所長が言っておりますが,技能と技術が変わってきたことについて,あらためてそのへんを中心に,いろいろと論戦をやっていただければと思います。

田中 先ほど早川校長がおっしゃったように,技能と技術という言葉をどうとらえるかということは,長年の宿題なんですね。私もこの話がありまして,もう一度技能とは何か,技術とは何かと比べてみたわけです。一応分けることはできるんですが,最近ではまず分けられない。技能と技術を熟語で使ったほうがいいのではないかという感じが強いです。特にその中では,この間のシンポジウムのように技能の技術化というか,技能のこれだけの分野が技術化されて向こうに行った,逆に技術がこっちに来たと,一つになってきたのかなという感じもあります。

一つの例ですが,ポリテクカレッジ浜松の井原校長がこういう話をしています。技術には三つの要素があり,それは技能,創造技術,科学技術である。創造技術にしろ,科学技術にしろ,実現するためには技能が必要だということです。だから三つが一つにならないと,ものができてこないという言い方をしています。

たしかに私が職業訓練生を教えていて,技術の進歩をみますと,例えば昔は汎用旋盤でものを削るバイトの材質は炭素鋼でしたが,高速度鋼になりました,超鋼になりました,それもろう付けのものから今度はスローアウェイになりました,最近ではセラミックへと変わってきました。これは,技術の進歩でこう変わってしまったわけです。

例えば真空管からトランジスタ,IC,LSI,みんなこういう変わり方がございます。こういう技術の変わり方によって,教える技能,使う技能も,それに伴って変わってきているわけです。先ほど開発途上国の話が出ましたけれども,私も開発途上国にたくさん行きました。そこで現場に行ってものを見たときに,いまがどこの段階かということがすぐわかるようになりました。

例えば工場に行って,刃物は何を使っているかを見れば,いま技術の発達のレベルはこの程度であるという見方もできます。技術が発達するとともに技能の教え方が変わり,それなりの教え方をするようになります。ただ一つ,例えば汎用機械からNCになりました,マシニングセンタになりましたといっても,段取りは変わらないんです。自分で考える,ものを作る段取りは変わらない。そういう点では,相手は変わっても技能は変わらない。技能の原点はそのへんにあるのかなと思います。勘,コツも含めてヒューマン的(人間的)な分野であるという感じが,特に最近しております。

だから,技能と技術を考えたときにどこで区別するのか。ホームランを打つのは技術か技能か。Jリーグでやる,あのドリブルは技術か技能か。実は,全部技能ではないかとも思っています。ただ,一般社会にいるときには,技術と言ったほうがかっこうがいいし,聞こえがいい。こんなことなのかなという感じもしていまして,ますます技能と技術がわからなくなっているということで,何か知恵があったら教えてほしいと思います。

秀島 いま,技能と技術が一緒になったような,違うようなというお話がありました。そういうことも含めてお話しいただきたいと思いますが,訓練施設でもそう変わってきています。ある種の不透明なところもあるんですけれども,訓練施設で訓練をやるときに,指導員としてはそのへんが非常に難しくなってきやしないかと思います。そのへんで何かありませんか。

ものづくりと人づくり

早川 ものづくりという言葉と人づくりという言葉があります。職業訓練は人づくりなんだけれども,基本はものづくりだというふうに見てしまうわけです。だからいまの技能と技術の問題も,もののほうに注目していくと,ある意味ではだんだん技術に蚕食されてしまう。もっと極端に言えば,いずれは人間がいらなくなって無人化される領域が増えるだろうし,あるいは,先端技術が進めば進むほどいろいろな道具がフールプルーフになってしまう。

ところが,特に労働省としては雇用の問題に関係しますと,人がかかわっている限り,人のする仕事のところでは何をしているんですかと問うべきです。あとでお話ししますけれども,見ているだけでも仕事なんです。まずは,昔の生業みたいなものは,本人が材料から選抜して,その材料を加工して,できあがりを見て,うまくできた,満足できたということになります。そこには非常に時間のゆとりがあるわけです。好きなときに材料を見て,好きなように仕事の段取りをつけ,好きなときに加工して,できあがる。だから非常にヒューマン関係がルーズなんです。

ところが大量生産をするようになると,簡単に言えばベルトコンベヤですから,人間がかかわっているときに,ある作業をある時間内にして,次に渡して,同品質のものをいかに速く作っていくかということになってきます。そうすると,人間がいったいそこで何をしているのかということが訓練の対象になります。だから画一的な作業で,速く,正確にやることが訓練の目標になってきます。段取りを作る。場合によっては,石油の製油みたいにオートメーションだというと,パイプの中を流れる液体の音を聞いて,これは大丈夫か大丈夫ではないかを見ていくわけです。本当に監視するだけみたいなものにも非常に高い技能が必要になってきます。ですから,片や機械のシステムがだんだん密になってくる。では,そこで人間の仕事はどういうものかを見極めていく必要が生じます。

いまは技能と技術を少し別にして考えてみれば,技術のほうは機械のシステムで,そこにかかわってそれを動かす,人間がかかわって人間がやるところが技能の対象だということになっていくと,やはりそれはだんだん高速になり,高性能になり,非常にサイズの小さなものに移っていくようになるのかなと考えています。ただ,それに対して訓練のシステムをどう考えたらいいのかという問題が,いま提起されているように思います。

秀島 いま技能と技術,技術者と技能者ということでしたが,越丸校長のところは直接生産現場との関連がありますから,例えばいま短大で2年間で訓練をやるときに,課題みたいなものをやらせていらっしゃいますね。それから現場から来て,ある課題を持って,それを開発して卒業するとか,訓練の中で訓練生自身が技能者の目と技術者の目と両方持っているような感じがするんですけれども,そのあたりはどうでしょうか。

越丸 秀島所長のいまの問題提起に関連するものですから,その前に私どもの会社で技能と技術についてどんなふうに感じているかというと,私は会社に入って29年になるんですけれども,実は27年間現場にいました。生産現場でずっとものを作っていました。それで私なりに感じていること,それから私どもの企業の風土として感じていることを申し上げると,生産の仕組みをここまで育て上げてきた基本はやはり技能です。

先ほど田中所長がおっしゃった刃物の話がありました。刃物の先端で何が起こっているか,あるいは塑性加工するときに,金型と被加工物の鉄との間で何が起こっているか,潤滑剤がどんなふうになっているのかということを知っているのは,現場の技能員です。技術革新のテンポがゆっくりのときは,彼らがそれを毎日見,聞き,なめるんです。実際になめることによって,潤滑剤の劣化度などが酸っぱくなってわかるというんです。そういうレベルの改善をいっぱい蓄積していくプロセスが,生産の仕組みを変えていきます。私どもの技術・技能の進歩が何によって評価されるかというと,品質と原価です。安く,いいものができる。この基礎になっているのは全部技能です。例えば,成瀬先生の歯車の研究成果をかいま見る機会を得まして,たいへんうれしかったんですけれども,歯車の諸元が私どもの設計部門から出たときに,ピニオンギアと大きなリングギアとのギアのレイアウトとギア比が出れば,だいたいどんなギアになるかが決まります。それは機械的に決まるのであって,それを実際にものとして成立させるための熱処理のときのひずみ,そのあとの研磨といった機械のセットアップは,すべて現場の技能者に任されています。

試作でそういうものが出てきたときに,それを成立させるのは現場の技能です。実はこの技能が,非常にアップテンポな技術革新の中に巻き込まれてきたときに,初めて技能と技術の融和が求められ始めました。それまで,技能の伝承はその職場の大御所が自分の弟子を集めてやっていました。デベロップと呼んでいる,歯切りのときのギアの調整があるんです。グリーソンという機械で削る場合にはその調整があるんですけれども,それをすればこういういいギアができるということを,技能として伝承していけばよかったんですけれども,非常に早い技術革新の世の中になってきますと,その品質を早めに玉成しなければいけないし,新しいものを早めに立ち上げなくてはいけません。

こうなりますと,セットアップそのものが工作機械のギアトレーンの中でどのような技術的な課題として出てくるのかというところまで,煮詰めていかなければいけない。こうなったときには,いままでわれわれの会社の発展を支えてきていた技能の限界が出てきます。その場合には,どうしても技術屋さんが入ってきます。

そのときに,技術屋さんが新しいものを作り上げることができるかできないかは,やはり技能の蓄積がどれだけあるかです。先ほどお話がありましたが,これは長年かかって積み上げてきた技能員の層の厚さが本当に効くんです。歯切りのプロ,熱処理のプロ,研磨のプロ,こういった者がそれぞれの分野で培ってきた技能を寄せ集めてきて,初めて機械加工されたギアとしての商品に結びつきます。

言ってみると,ギアというのは非常に芸術的な側面を持っている製品になってくるんです。そういう領域で私どもがいま非常に直面しているのは,技能と技術を融合させた芸術的な領域にまで高まっているものをどうやって教えるかわからないということです。

これは非常に大きな課題ですけれども,技能者が技術の進歩に貢献できるように自分たちの蓄積を出すというのは,だれでもできるわけではないんです。その人間の基礎になっているものがあるわけです。それは,私どもの学校のヒューマニティーなのかなという気がしているんですけれども,それはやはりある種の教育ではないかと思います。ある種の教養です。

教養とはいったい何なのか。これはやはり,技能を無視した教養はあり得ないんです。技能をしっかりと抱えている。技能が背骨だとしますと,その背骨を成立させる筋肉だと思います。筋肉は使わなければ育たないし,使えば使うほどどんどん強くなります。その使うべき筋肉とは何かというところです。その教養とはいったい何だろう。新聞を読めば教養が高まるのか。そういうものではないですね。

非常にとらえにくいところなんですけれども,やはり非常に幅の広い人間学のようなもので,先輩たちが鍛えてきたものの中からいろいろなものを吸い上げながら作っていく教養が人間にないと,技能を技術として融和させるようなものを提供できない。実は,こう考えているところです。

ですから,この人をどういう人に育てたいんだというわれわれの人材像を常にクリアにしておいて,それを生み出すためにはどうしたらいいのかということを,常に考えていかなければいけません。非常に抽象的になりますが,私は,技能をしっかりと教えていくための基本は,この人間にどういう教養を身につけさせて卒業させていくかというイメージを,常に現場とやり取りしながらアップデートしていくことにあるのではないかと思います。

ですから私どもは,先生は3年でローテーションさせますけれども,学科主任や教務主任,副校長,校長は教育のプロでないといけないと思っています。私どもの学校の伝統を入ってきた先生方に徹底的にたたき込んで,先生方はそれをもって今度は学生に対処します。つまり,われわれが教えるのは人間教育だというところをまず認識しないと,やはりテクニックに走ります。そうすると技術屋さんですから,このテクニックの基礎になっているのは技能であるということがなかなかわからないんです。

話が発散しましたけれども,そんなふうに感じております。

秀島 成瀬校長も科学技術,技能,創意工夫と教育訓練を理念にあげていらっしゃるんですが,いまの越丸校長のお話では,人間教育のところをどう教育していくか,そのために指導員はどうあるべきかというところが非常に問題ですね。『技能と技術』誌だけではなくて他にもありますけれども,そういう面で指導員の方が勉強する材料を提供するように持っていかなければいけないと思います。

清水先生,公共の短大として,そのへんの技能と技術の教育のほうはどんなふうにやっていらっしゃいますか。

技能は技術をこなす技

清水 技能と技術というふうに,ともすれば対照的概念としてとらえるのですが,私は,先ほどの和田局長がおっしゃった言葉の中の,技能の訓練と技術革新は無関係でないという言葉に注目したいと思います。

技能というのは技術を出す技だと思います。「工(たくみ)」という字は1枚の板の上と下を示しているんです。そこに丸い穴を通す。これがたくみなんです。漢字のできた時代には,そういう技術は非常に難しかったんだと思います。その穴を通すのには,きりを使ったのか何を使ったのかわかりませんけれども,一つの機械を使って穴をあける。ですから,工の難しい字には「■」がありますが,あれは複雑な穴があけられる技術だということになります。

ですから,やはり技能は技術をこなす技だろうと考えられます。そう考えますと,技能を関数形で考えれば,技術の合成関数になります。技能を進歩で考えますと,合成関数ですから,いわゆる技術革新の速度と,それを革新していく技術を技能に取り込んでいく速度の積になってきます。したがってどうしても訓練内容は,技術革新に沿ってどんどん変化するものだと思います。これは当然だろうと思います。そういう意味で技能と技術とは単独に推進するのではなくて,やはり両輪になって進んでいくということです。これが第1点だと思います。

もう一つ申し上げたいのは,対照概念でとらえたときに,もし技能に技術より優れた点があるとすれば,技能は体を通して,例えば手を通して実現しますから,どちらかというと右脳的な人間の豊かさに結びついたものが自然に出てくることです。そして,そういう人間の行動を通してものを作っていくことが技能のよさだと思います。

技能を育てるために,日産ではかなり文化的な教養も鍛えていかなければいけないというお話もございましたけれども,やはり技能のベースになるもう一つ別の要素があって,そのへんを伸ばしていかなければいけないのではないかと思っています。

早川 いま脳の話が出たんですけれども,右脳と左脳とでは,片や分析をする,片や感性の部分であるとのことですが,例えば羽生という将棋指しはその両方を使うので,他の人はまねができないという話がありますね。ところが同時に小脳もあるわけです。運動神経があって,この三つが融合したところに技能の本質があると思います。

言語系という言葉を使っていますが,技術は蓄積されるし,あとになってそのとおりだれかがまねをすればいいし,新しい材料ができればそれが進んでいくわけですけれども,技能は放っておいたらどんどん下がってしまいます。伝承する人がいなければ下がっていってしまいます。それから,同じ人でも怠けていたり,放っておけば下がってしまう。そういう特性があるわけです。

ものづくりという立場からいけば,蓄積されていって,あとになっていくらでも積み重ねていけるようなものと,ある部分で人間がやって,放っておいたら下がっていってしまうような能力の両方を核として,いまのものづくりのシステムができているんだろうと思います。だから,いまも分けて考えればそれぞれ違う性格があって,お互いの協力なしにはものづくりシステムは進歩しないし,場合によってはどんどん下がる一方だということになるのではないかと思います。

手は体の外に出た脳

越丸 だれが言ったかよく知らないんですけれども,私どもの職場に「手は体の外に出た脳である」という標語みたいなものがあるんです。考えて,こうやればできるはずだということを実際にやってみると,できないケースが多々ありますね。それを,ちゃんと手を動かすことによって考える。それがちゃんとフィードバックされる。だから手は体の外に出た脳であって,これを使わないというのは全然だめだという考え方があるんです。

これは,いま早川先生がおっしゃった運動神経に結びつくのかどうか,よくわかりませんけれども,鍛え上げた技能みたいなものはその役割をしているのかなという感じがしました。

田中 いまいちばんいい例は,金型などをみるとそうじゃないですか。例えば2μmは機械加工ができます。ただ,1000分の2mmの加工ができたから金型がうまく抜けるかというと抜けないんです。最後は手仕上げなんですね。完全に手なんです。そうやって考えていくと,技術的にはできるけれども,実際には製品にならない。これを助けるのが技能の世界なんですね。

越丸 おっしゃるとおりです。研磨1μmを落としたいというと,ササの葉っぱでやるんです。あれにはたまげましたね。クマザサみたいなササの葉っぱでパチッとたたくんです。そうすると1μmが研磨できているらしいんです。(笑)

田中 だからたしかに,ある種の勘とコツの世界ですね。

清水 もう一度産業の問題に戻りますと,産業転換でいわゆる重化学工業から加工組立産業,技術集約的産業になったということは,技能にとっても幸せだったと思います。特に山形県では,それが非常に幸せだったんですが。というのは加工組立産業では,最終製品の自動車のようなものは港に近いところで組み立てますけれども,1~2万点ぐらいある部品点数のほとんどは分業で作られます。その分業先は,山形のように空気が清浄で,水がきれいで,しかも人格的に非常にきちょうめんな人たちが多いところです。

分業先が高速道路に沿いながら,どんどん山奥へ入っていったのは,必ずしもそっちのほうが安いとか何とかというのではないんです。そういう日本的な風土,いわゆる技能と技術の結びついたところで伸びていったと思います。

職業訓練は地方に住んでいる人たちに新しい生き方を教えたと思います。加工組立産業が山形県に入ってきたのは昭和50年ごろです。この雑誌で言いますと,五十数年というと,ちょうど100号記念とか20周年記念のころで,あのころは雑誌の中でも,これからの方向をどうしようかという議論が非常に多かったですね。

やはりそういう土壌の変化,新しい展開を,雑誌の中でも模索していたという気がします。

秀島 技能と技術が非常に変わってくる中で,これからの技能のあり方ということで考えますと,わが国の産業としては,大量生産ではなくて付加価値の高いものを作っていかなければいけないということでもありますね。そういう中で,職業能力開発の事業をやっていく場合に考えておかなければいけないことはどうなっていくか。

産業のレベルを維持するには技能者の層を厚くしておかなければいけないということから,これからも能力開発事業は非常に大切になってこようかと思います。そういう新しい技能,技術を教えていくことになったときに,能力開発の事業では,指導員の方々の資質をどう高め,維持していくかが非常に問題になっていくと思います。

そういう意味で,これから『技能と技術』誌をどう持っていったら,よりそういうことの手助けになるかということで,まとめ的な意味合いから,そのへんを議論していただければと思います。

今後の本誌は?

早川 これは出版物としての内容の問題ですが,私は,職業能力開発は非常に広い範囲でいろいろな見方が可能であるので,指導員たちの広場とでもいうような役割を果たしていただきたいと思います。いまも一方で問題になっているんですが,オリジナルペーパーという研究発表の場所としては,本校が関係するものでも職業能力開発研究誌がありますし,職業能力開発報文誌があります。それから一方では,実践教育訓練研究協会の『実践教育ジャーナル』もあるわけです。

これらの役割をそれぞれ少し整理して,見直さなければならないと思います。私自身これは全部関係しているものですから,そういう考えを持っているんですが,『技能と技術』の最初からの役割を見てみると,いま非常に広い範囲だといいましたけれども,そういう性格を引き継ぐためにも,なお,できるだけ大勢の職業訓練関係者の方がそこに共通の問題を見いだす広場としての役割を果たしていただきたい。

総合的な解説,資料,意見,あるいは多少技術的なことも含めて,いまのスタイルを多少は整理するにしても,性格としてはぜひ前に述べたようにしたいと思っております。これは私の意見です。

秀島 いまの編集の方針としては,実践報告が主体になっています。それに教材の開発関係,調査研究,それから最近の例でいくと海外情報みたいなものも入れています。そして必ず特集を一つ組んでいるというのがありますけれども,そういう面では他にもそういう雑誌がございますので,どちらかというといちばん最初の創刊のときにあった,研究論文的なものを平易に解説するというところは,ちょっと薄れているかなという気はします。先ほど早川校長がおっしゃったような,多くの指導員の方々の共通の情報の広場の役割には,いまは比較的なっているのではないかという気がしています。

田中 デザインで言うと,例えば公共の中では,県の先生方の発表はボリューム的に少ないんじゃないでしょうか。私はどちらかというと,県の先生方の発表した内容を見ると何かホッとするような感じがあります。その内容が何か近い。いま事業団のほうは,どちらかというと情報系が非常に多くて,私が情報系の出身ではないので特に感じるんでしょうけれども,そんな感じもありますので,もう少し県の先生方の発表を盛り込みたい。特に実践報告が,それを使えるということで,先生方にもいちばんピタッとくるんですね。

早川 私は,オリジナルペーパーみたいなものはもういいんじゃないかという気がします。実践報告のような,いわゆる技術あるいは技能固有のオリジナルペーパーではなくて,もっと広い範囲の人たちに参考になるようなものとして,尊重していきたいと思います。

清水 いまいちばん重要な問題は,技術者の養成が非常に多様化したことなんですね。能開大の傘下の学校にも三つの学校があります。一つは事業団,それから企業で日産テクニカルカレッジのようなカレッジ,それからうちみたいな県立のところです。

それぞれが技術とか技能を目標にしながら養成を行っているんですけれども,その方法が少しずつずれてきたような気がします。それは悪いことではなくて,それが認められて拡散していったという多様化の時代に入ったという気がします。特にうちの山形ですと,卒業生の95%は山形に就職するんです。それからもう一つは,山形の企業は99.7%が中小企業です。

いままでの山形の企業がどういう生き方をしてきたかというと,東京にある大企業から設計,仕様などが全部きて,それを加工するのが山形の中小企業の仕事だったんですけれども,最近そういう生き方が非常に難しくなってきたんです。中央の会社の下請けだったとしても,独自のものを出していかなければいけないという時代になってきたと思います。

したがっていままでとは質の違った技術者を作るんだというムードが出てきていると思います。例えば発想法です。製造よりも発想法が非常に重要になってきたんです。またその発想をどうやって具体化していったらいいか,その手法。またそのバックグラウンドになる知識が必要ですが,そのへんを平易に説くような解説をしていただきたいと思います。

山形ですと,山形大学の工学部の学生で地元に就職するのは,せいぜい10%ぐらいしかいません。鶴岡工専でも50%ぐらいです。そうすると,うちだけが山形の中小企業を支える学校だということになります。

したがって学生には,創造性も含めた技術と技能の訓練をしっかりやっていかなければいけません。これが第1点ですが,半年,卒論として学生を研究室に先生と同居させています。先生1人に学生が3人ということで,先生と学生が同質になるまでそこで訓練させるんです。

これが意外と効果があるんです。少なくとも,コンピュータのトラブルなんていうのは学生のほうが早く解決してくれます。こんなことはオフレコですが(笑),やはりそういうことによって全人格的な教育をしていかなければいけません。

2年のうちの4分の1を卒論に使ってしまうわけですから非常に冒険なんですが,それによってディスカッションする能力もできます。そして最後に卒論ができますと,発表会をやります。公聴会形式にして,卒論をオープンでやります。昨年はNHKが取材に来まして,うちの卒論を一コマですがテレビに撮って流しました。そうすると学生に表現力が出てきます。これからのエンジニアには,発表能力や表現力が非常に重要だろうと思います。

一つだけ問題があります。その一つを,この雑誌にお願いしたいんです。短大に行って気がついたんですが,輪講をやるときにいい雑誌がないんです。要するに工学を勉強して2年ぐらいですね。1年少々しかやっていないんですけれども,かなり解析能力などをつけてきた。大学の場合は,世界中の学会誌から自分の専門のものを先生と選んでやっていくわけですけれども,そういうことがなかなか難しいんです。

ですから,必ずしも論文誌的なものでなくてもよいと思いますが,私はやはり機関誌的な性格とともに,論文誌的なものをつけてくれるといいと思います。オリジナルリポートでなくていいんですが,そういうものがあれば,学生がどんどんこの雑誌を読んでいくだろうと思います。いままでは教官のナビゲーターだったんですけれども,今度は学生も読める雑誌にしてほしいんです。

秀島 いま清水校長がおっしゃったのは,もともとずっと指導員の方々のということで来ているのを,そこまで持っていったらどうかということですね。

清水 また特集号形式で,技術関係を組んでいただけるといいんじゃないかと思います。

秀島 前にこれの編集委員になった人たちの中でも,大きく分けたら経緯的に言うと五つか六つに分けられるから,たまたま6回やっているので,情報系,デザイン系など,部門ごとの特集を組んだらどうだという提案もあったんです。

清水 いちばん最初のところに,どなたかに展望を書いてもらって,下にまとめていただく。

秀島 そのへんも含めまして越丸校長お願いします。

技能を重視するとはいったい何か?

越丸 私は,これからの技能について感じているところ,いまわれわれが議論しているところについて,ちょっと情報提供をさせていただいて,ご参考になればと思います。

私どもがいま技能についてどう感じているかと申し上げますと,技能を重視するとはいったい何かということです。これは私どもの社内でも,例の卓越技能者のような,技能を積んだ方に対する表彰制度はあるんですけれども,それはある意味では,現場の人間として功成り名を遂げた人に対して,ご苦労さんという慰労の色彩の非常に強いものなんです。果たして,これからの技能者はそれをめざして取り組んでくれるだろうか。こういうことが,私どもの技能を重視するという施策の中心的な疑問です。

そこで,私たちがいちばん技能を重視するということは何なのだろうかと突き詰めて考えていくと,やはり処遇だと思います。それは職位と賃金です。重視するとはどういうことなのかと突き詰めると,その技能を修めたことによって幸せに暮らせるということではなかろうか。誇りを持って暮らせるということではなかろうか。それをめざしていくことによってモチベーションが得られて,成瀬先生が創刊号の冒頭に書かれていました,こころざしが技能者に茅生えてくるような環境づくりをしてやることが,われわれのできることではないか。

突き詰めますと,やはり技能を重視する社会をしっかり作っていくことだと思っています。この社会を作ることは,ずいぶんいろいろな議論が出ました。いままでわれわれは偏差値輪切り教育の真っただ中で暮らしてきて,大学を出て,古い体制の中で,社内でもそれなりの処遇を得ているわけですけれども,これからは多様な価値観を持った若い人がたくさんいるわけですから,そういう人たちがこの制度の中ではみ出してくるのは目に見えております。

それでいて,技能を志す人間がゼロかというとそんなことはなくて,たくさんいるんです。その人間に働きがいを持ってこの会社に飛び込んできてもらえるような環境さえ作ればチャンスだと思います。逆に日産自動車に入れば,技能を修めれば,これだけの処遇が得られて幸せに暮らせる。職位も得られる。日産自動車が技能を重視する会社だといえるというのは,そういうことではないかと考えております。

これは,ずいぶんいろいろな議論をしました。われわれはいままで偏差値重点主義でやってきていましたが,文部省の教育の中で,先ほど清水先生がおっしゃった初等教育,中等教育です。明治のころは本当にどこに行っても,どこの村に行っても小学校にはたぶんありましたね。二宮尊徳が。それが明治,大正とずっときていたわけです。あの初等教育,中等教育の厚みが,日本の発展をもたらしたことは間違いないですね。

ところがそれを卒業して高等学校に入って,一高,東大の流れの中で,日本をしっかり支えていこうといった明治の元勲のこころざしは,あの方々が生きていたころはまだ影響力があったんですけれども,どんどんいなくなって,いまの硬直した社会を生んでいるのではないかと議論をしたんです。

私も労働省系の労働教育のいったんを担おうとした場合に,ある意味では文部省系のいままでの教育へのアンチテーゼではないんですけれども,人を生かし,自分を生きる,個性を生かすというハートのこもった技能教育が中心にあれば,偏差値輪切り教育からはみ出してきたような人間でも,十分その中で生きていって,社会的にも立派な地位や収入を得られるのではないか。そうすると,その人たちがめざしていくような技能者が出てくると思います。

ちょっとおおげさになってしまって申し訳ありませんが,これからの日産自動車がそういう会社をめざしていくことが,われわれの発展を支えるのではないかということを,私ども人事教育部門の中では議論をしています。これはかなり煮詰まってきましたが,この成果が出てくるのはそうとう先だと思います。私なんかいなくなってからなんですけれども,それでも日産自動車は技能を重視する会社だということが定着するためには,いますぐに着手しないとだめなんです。

技能者を処遇するとはそういうことで,それが技能を重んじることの証だということを,実はいま考えているんです。それがどういうかたちで表現できるのか。『技能と技術』誌の中で取り上げていただけるのかどうかよくわからないんですけれども,例のシンポジウムは非常に大きな問題提起になっていると思います。

非常におもしろく,私もあれを読んでいて本当にしみじみとしたんですけれども,そういうしみじみしていただけるような心の教育ですね。技能を重んじるというのはこういうことなんだという集大成で,先ほど方向づけという話がありましたけれども,そんなかたちでの方向づけができればいいんじゃないかと思います。

秀島 先ほどらい,技能と技術についてのお話をいろいろいただいておりましたが,これから本誌の役割が十分担える内容のものになるために,なお一層これについての充実を図っていただきたいということの中で,一つには多くの方々の情報の場という意味合いの役目を忘れないようにということがありました。それから,いろいろな方がいらっしゃるので,そういうことを特集的なもので少し考えていったらどうだろうか,平易な文章というのはあるけれども,やはりあまり雑誌的ではなくて,少しはきちんとした性格のものを保持していかなければいけないのではないのかという話がありました。

最近では,広い意味の役割も非常に変わってきていると思います。例えば,先ほど人間教育が非常に大切だというお話がありましたけれども,人間を育てるには教える人がそうなっておかないといけないということが一つあります。そういう広い意味でのカウンセリングや相談にも対応できる。それから清水校長がおっしゃったように,技術的な面での企画力,創造力も指導員に非常に要求され出してきて,指導員としての全体像と全人格は,人間的なものと技能的な専門分野と両方高めていかなければならないということで,たいへんなことが求められようとしています。そういうテーマ全体にそえるかどうかはなかなか難しいと思いますけれども,そういうことに少しでも近づくように編集をしていかなければいけないと感じております。

短い時間の中でいろいろと中身の濃いお話をいただきまして,本当にありがとうございました。いただいたご意見等を参考にしながら,また『技能と技術』誌を一層充実したものにしていきたいと思っております。今後ともよろしくご協力をお願いしたいと思います。本日はどうもありがとうございました。

なお,本稿は誌面の都合で一部割愛したところがあります。また,小見出しは編集部でつけました。

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