• リレートーク【1】
  • ポリテクセンター石川  島村 弘海

ラパスへの旅立ち

赤い日付変更線を過ぎると,そこは太平洋上であった。飛行機は途中,ロスアンジェルス空港に立ち寄り,一路地球の裏側へと機首を向けた。サンタクルス空港からラパスへの空路が最終コーナである。すでに日本をたってから30時間近くが過ぎようとしていた。ここからが不幸の始まりである。

爆弾の炸裂があったわけでないが,飛行機の操縦席の窓ガラスが割れたのである。最後の昼食を取った後だったので,ほとんど全員がまどろんでいた。私はラパス空港に降り立ったときの歓迎式用のメッセージを,スペイン語でなく日本語で用意しようと思っていたときであった。私はその光景を目にしたのである。機内に流暢なスペイン語で案内がされるはずであったが,なにもなかった。雲海を抜けた高度4000mからUターンして元の飛行場に引き返したのである。ベルト着用の合図とともに何か説明があったが,意味が理解できない。しかし光景を目撃していたので,私は落ち着いたものであった。

慣れない国の電話でまごつきながら,ようやくJICA事務所に連絡ができたのは2時間後である。昼の1時にラパスに着き,美味しいビールが飲めるはずが,夜の8時になってしまった。7時間も空港で侍ちぼうけ,メッセージも披露できず,ビールもなし。こんな不幸がありましょうか。

チチカカへの旅立ち

私の職場は,ペドロ・ドミンゴ・ムリージョという,日本での工業高校である。とある日,現地の仕事仲間と世界一高所にある湖として有名なチチカカ湖に調査で出かけた。南米の原住民はアラスカを経由して,この地にやってきたアジア系の民ともいわれている。出会う老人は,日本の老人かと見違えるほどである。湖畔のとある集落で,パンパクという石焼き料理をご馳走になった。そこで出会った現地の少年と,午後の楽しきひとときを過ごした。

農業高校への援助も現地の強い要望である。このチチカカ湖の近くにある農業高校への視察が,その目的の一つであった。高度4300mの澄んだ空気,強い太陽の日差し,青くきれいなチチカカの水,生真面目な現地の労働力,トマトとジャガイモの原産地。私はこの高原でソバの栽培ができないものかと,今でも思っている。視察の後,太陽の門で名高いティワナク遺跡で遊び帰宅の途についた。途中またも不幸がやってきた。トラックとすれ違いざま,目の前が真っ白になった。道路の砂利石が,私の車のフロントガラスを直撃したのである。

不幸ばかりでない。うれしかったのはそれから数ヵ月後,アフリカ・ザンビヤから一通の手紙が舞い込んだのである。植良専門家からの手紙である。驚き桃の木山椒の木,まさかアフリカからこの南米へである。

氏との出会いは,加古川時代である。当時,政労協・兵庫地連結成に向けて準備が進められていた。私は支部長を辞めたときであったので,これに関わることになった。氏の弁舌での活躍と私の少しばかりの酒席でのお手伝いで,全国でもトップで結成にこぎつけた。

手紙には現地での観光の様子と,仕事のことは少しばかりと,あと半年で帰国する予定が熱く書かれていた。この手紙が不幸への第3章につながるのである。

イースタ島への旅立ち

イースタ島は南海の孤島である。私の顔にも似た,あの石像がある島である。訪れるチャンスは今しかないと思っていた。帰国前,この地への視察を申請した。悪い予感が的中した。JlCA所長に却下された。悔しい思いで帰国に就く,そして植良氏からの指名である。

幸福のはがきというのが数年前,流行したことがる。リレートークは幸福の電話である。指名された人は喜んで書きましょう。悪いのは指名した人なんだから。さて私の指名の番である。若き事業団のエース,浜松短大の菅野金一氏である。加古川時代,熱き思いを語り合った仲間「きんちゃん」,彼自身のことは次回のお楽しみに。

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