見城 このシンポジウムのテーマである「ベンチャー企業と技術者教育」という問題ですが,これがはたして技術教育なのか,技術者教育なのか,いろいろな問題が出てきて活発なディスカッションができることを期待しております。
まず3人のパネリストのイントロダクションから入らせていただきたいと思います。
順番は,私とパネリストとの出会いの早かった順,それが自然かなと思います。
小部博志さんは,現在,日本電産(株)の専務取締役ですが,かつては私の研究室の卒業研究生であり,さらにその前は普通の学生でした。日本電産(株)のいきさつについて,若干私が知るところをまずご紹介させていただきます。
この会社の社長は,永守重信といいますが,この永守社長も私の研究室でモータの卒業研究を行った人間です。では,この永守社長と小部君がどういう関係であったかというと,まず卒業年度が4年間違う。当時,私どもの大学校は小平市にあって学生寮もあり,学生たちの半数ぐらいは,入寮できたんですが,先輩・後輩の関係があったり,いろいろ習わしがあり,小部さんは先輩・後輩という上下の関係のない生活をしようというわけで,寮を出て国分寺市に下宿しました。
ところが,律儀に挨拶回りをし,隣の部屋を叩き「よろしくお願いします」「大学はどこだ?」「訓大です」「科は?」「第1電気科です」「なんだ,おれの後輩じゃないか」ということで,やはりここでも先輩・後輩の関係ができてしまいました。そして現在は,社長と専務取締役という関係で,日本電産(株)という会社を運営しています。
経歴を申しますと,まず最初に社長の永守君が,ティアックという会社におり,それから京都の山科精器という会社でしばらく修行して,28歳で京都の自宅で創業をしました。小部君は山科精器に少し一緒にいて,24歳で日本電庄創業に参加しました。
どういう状況かというと,創業当時に訓大卒業者が何人かおり,全員で男子7名,女子1人の8名でしたが,現在,当時の訓大卒が4名残っています。そしてグループ全体では1万名,国内11事業所,海外7事業所,134億円の資本金,売り上げは1000億円と,大きな成長を遂げてきました。
創業当時は2階が大家さんで,下の倉庫を借りて, モータを作り始めたということのようです。それから現在までにどんなに成長をしたのかは,グラフを見てください。売上高,グループ従業員ともずっと成長をしてきた。これは数学でいうと,指数関数でしょうか,やがて無限大になるんですが,実際に無限大になれるかどうか挑戦中です。
さて工場としてどんなものがあるか。日本国内には,小型モータ,特にハイテク,コンピュータ周りの小型モータの生産工場が11工場あります。生産の拠点は,現在アジアに広がっているという様子です。コンピュータのハードディスクあるいはストレージを動かすモータの大半を世界に供給する日本電産というかたちに育っていったわけですが,その中で技術者教育というものはどういうものであったのかを,ぜひご本人に質問をして,お答えいただこうかと思います。
次に,一杉雅博さんですが,(株)上昇,ぼっくり屋という名前がついていますが,肩書きはなしです。なぜかとお聞きしましたら,実は事業部長返上中ということだそうです。
一杉さんと私との出会いは,実を言うと,これもまた私の研究室にいた高原奉玉という学生がきっかけでした。彼をどこの企業も採用してくれない。そういうことがありました。本人はどこか大きな会社に入りたいということでしたが,私の交渉力がうまくなかった。
一方で,一杉さんという方がおられて,ある会社から,金も出すし,人も出す,会社を作らないかという状況があったようです。そこで私と高原という学生との関係で一杉さんと出会います。いきなり出会ったというよりも,「あの研究室に就職が決まっていない優秀な人間がいるよ」といううわさです。うわさというのはどこかに流れていくんですね。
そこで2人が,じゃあ一緒にやろう。会社が仮につぶれても,一杉さんが給料を1年間は支給する,夢をみようというかたちで始めます。そこで丸昇電子(株)という会社を作り,調布市にガレージを月に15万円で借りることにしました。私も訪ねたことがありますが,15万円も出して,こんなものしかないのかというところでした。
実はほかにも秘密の工場があったんです。学生寮でした。アルバイトの学生たちが寮を工場みたいにして,一生懸命助けてお互いに共存していたわけです。一方では学費が稼げますから。
そして当初3800万円の売り上げがあった。しかし赤字。だが,5年もたつと,売り上げ3億円,経常利益が4000万円になりますが,ここに一杉さんの人柄が感じられます。一杉さんのところで働きたい,いまの会社を辞めたい,行くところもないから行くかというかたちで成長してきたのです。高原君だけでなくて,私の研究室でほかに就職がなかなか見つからない者が5人か6人いる。次から次へと丸昇電子で技術者になっていきました。
そうすると1000億円のある中堅企業の社長の次くらいに偉い人が3人ばかりやってきて,ひとつ開発をお願いしたい。将来,必ず伸びるであろう一番重要なモータドライブの開発をやりたい,お互いに協力しましょうということになりました。
こんなふうになり,大きな会社が1つ仕事をくれるようになりました。
最初の会社,新しく関係ができた会社,そしてガレージの大家さんの協力関係が始まり,工場や開発室を建て,月80万円の家賃で始めます。こうして8年後には売り上げ5億円,経常利益6000万円になります。その後,会社を売ります。
ところで,一杉さん自身は会社を始めるとき,おれはヨットで遊ぶんだ。遊ぶために金を作るんだということが出発点でした。この優良企業を売ってその夢を実現します。英国のあるところでヨットを作ってもらいます,二十何人乗れるそうです。
当初は家族でデンマークまでインド洋を越えていくつもりでしたが,台風や故障が起こり,日本近海をぐるっと回ってくる間にいろいろなことがあり,山口県のある漁村に家を建て,そこで2年何ヵ月,毎日ヨットで遊びます。そのうちにお金がなくなり,漁村だから漁師になろうと思い,毎日一生懸命,魚を捕る練習をしました。だがちっとも魚が捕れない。石と魚の区別がつかない。それでこれはあきらめることになります。
家族はひもじい思いをするというところに,新聞広告で雇ってくれるところがあった。これが上昇という会社です。リサイクルから始まり,いま非常な勢いでファミコンの中古ソフトを販売する会社として中央でも急成長しています。一杉さんは山口県のリサイクルショップの運営をしておられます。
青柳哲次さんと知り合いましたのは,実は,小部さんの紹介です。青柳さんは現在(株)デジタルストリームの代表取締役社長です。
青柳さんは,アメリカの長者番付ナンバーワンのマイクロソフト社会長,“ビル・ゲイツ”と深い関係があります。青柳さんの経歴を簡単にご紹介しますと,1971年に早稲田高校を卒業し,日本の大学に進学せず,アメリカのペンシルバニア州立大学で物理学を勉強されました。そのあとマサチューセッツ工科大学の理論物理のPh.Dコースで原子核構造の方面の研究で学位論文を書きました。
そして上智大学に助手として採用されます。大学では,非常に自由なリラックスした雰囲気と格好で毎日学生と接したところ,学内からちょっと服装について問題ありということが起こり,それなら辞めさせていただきますと辞表を提出し,その次の週にはフランスのThomsonという会社に移ります。Thomsonという会社はこの間,韓国の大宇が買収したと新聞に出ておりました。大きな国営企業です。
そこで技術顧問をされます。そこでは,ヨーロッパのエンジニア,アメリカのエンジニア,大勢を扱うという仕事があり,大変苦労されたそうです。Thomsonを退職した後,今度はアメリカで,ある会社を興します。そして昭和63年,デジタルストリームという会社を創業されます。ビル・ゲイツと知り合いになったのが平成3年ごろ,そしてビジネスが本当に始まったのが平成6年ということで,2~3年前のことです。
現在は新聞にどんなことが出ているかといいますと,ジョイスティック,いくら作っても,生産が追いつかないという話も聞いています。大ざっぱにいうと,ビル・ゲイッは自分の作ったソフトウェアを売るのにきゅうきゅうとしている。青柳さんはコンピュータのハードウェア関係の設計,販売を日本でやる。ビル・ゲイツとそういう話ができて,現在に至っているわけです。
日本電産ではコンピュータ関係のモータを作っている。そして青柳さんはそのほかのハードウェアを作っている。一杉さんのところは,廃品回収から始まってリサイクル産業ですが,パソコンが古くなると一杉さんのところへ行って,またそれがほかのユーザを見つけて使ってもらうというふうな一連のビジネスが互いにできているのです。
ちょっと長くなりましたが,私のご紹介はこのくらいにしまして,これからお1人お1人に話をしていただきたいと思います。
小部 本日は,「ベンチャー企業と技術者育成」という,私にとっては非常に仰々しいテーマでこういう席に座らせていただいています。先ほど見城先生から,私について,また日本電産についてご紹介をいただきました。1973年に京都桂川のほとりに工場をつくったわけですが,その後,この日本電産はどのように成長してきたか? それを簡単に紹介させていただきます。
まず1975年,京都府亀岡市に亀岡工場をつくりました。次に京都府のずっと北,天橋立の近くに峰山工場をつくり,さらには滋賀県愛知川町に滋賀開発センターをつくりました。そして鳥取市に鳥取日本電産,岡山市に岡山日本電産という子会社をつくりました。さらには鳥取県米子市に日本電産エレクトロニクスという子会社をつくりました。京都市内に中央研究所や京都南工場をつくってきました。仙台には,ある会社を買収して,日本電産パワーゼネラルという子会社をつくり,長野県には,これもある会社を買収して,長野日本電産という子会社をつくりました。
このように日本の各地に日本電産グループの事業所をつくり,さらには海外にも工場の展開をしました。まずアメリカにNidec Americaを設立しボストンの近くに事業所を持ちました。最近ではタイに3つの工場を持つようになりました。また中国の大連にも大きな工場を持つようになりました。そしていまフィリピンに工場をつくっていますが,これは大規模な工場になろうとしています。
また日本電産ではどのような商品を生産しているかと申しますと,コンピュータに使うスピンドルモータ,つまりハードディスクという記憶装置に使うモータです。また複写機だとかプリンタに使うようなモータ,さらにはCD-ROMあるいはDVD関係の小型モータです。また,電源などに使う冷却用のファンも生産しています。さらにはスイッチング電源やアダプタというような電気部品も生産しています。このようにモータから始まり,そして電気部品に至るまでのあらゆるものを生産していくことで,いままで23年間やってきました。
日本電産は,創業してから23年間たつわけですが,創業から現在までどういう状況であったのか。先ほど見城先生から,グラフによる説明がありましたが,人間の誕生と成長と同じように,会社もだいたい5年間ごとの区切りによって成長してきたのではないかと考えられます。
創業から現在というかたちでまとめてみましたが,会社を創業してからの5年間は,なにはともあれ食うために働く。要は理屈ではない。とりあえず飯を食わなければならないということでした。そして次の5年間はできるだけ会社らしくしていく。小さい企業でもいい。とりあえず会社らしくしていこう。そこには総務がある,人事がある。しかしあまりそういうものを細かく作ると,当然管理費がかかります。けれども必要最小限の会社らしくしていこうというものでした。その次の5年間はちょうどバブルの時期に向かい,会社のほうもだんだん成長してきますが,非常にアンバランスであったと思います。そして創業して15年目に大阪証券市場に上場させていただきました。それからの5年間は工場もどんどん増やし,注文も取ればとるほどどんどん成長するという時期でもありました。
そして1993年以降はまだ3年しかたっていませんが,さらに日本電産は成長しています。しかしこの成長というものは利益を伴う成長でなければならず,いくら売り上げがあっても利益が出なければだめだということで,それにはやはり知恵が必要だという状況となりました。
では創業時,会社をつくったとき,われわれはどういうことを目標にしてやったのかといいますと,よい会社になろう,よい製品を作ろう,よい社員になっていこう。企業というものは繁栄しなければならない。社会に貢献しなければならない。何でもいいからナンバー1の企業でなければならない。そして働く場所を創造していかなければならないという目標を作りました。
そのためにはいろいろな手段がありますが,われわれは社是だとか,社員心得だとか,どちらかというと精神論的な手段を大事にしました。そして何事もすぐやる,必ずやる,できるまでやる。そして熱意,情熱,執念を持って,朝早くから夜遅くまでやる。人が8時間やるのであれば,こちらは16時間やるんだというようなことで,なにせ知恵がないものですから,それを時間でカバーするというような状況でした。
とは申しても,すべて企業というのは人ですから,人というのはどうやって育成するんだということで,まず社長自らが陣頭指揮をとり,すべて新入社員の面接をやりました。そして面接を行っては大きな声を出す人から採用する,あるいは昼食を出して早く食べた人から採用するとか,一種独特なかたちで人を採用し,また社内結婚はどんどん推奨する。社員旅行,親睦会,コンパ等を行い,まさに人と人との付き合いを重視しました。
いろいろなことをやれば当然失敗が起こります。しかし失敗は絶対に責めない。
それとお客さんの無理難題に必ず応えることを基本にしました。お客さんにいろいろなものを売ると,あんたのところはどういう工場で作るんだ,どういった人で行うんだと言われます。とりあえず工場を見てくれ,現場を見てくれと言い,工場にお客さんを引っ張ってくるということをやりました。
社長はいつも絶えず危機感を持っています。それは何かというと,やはり注文がない,ものを作れない,売り上げが上がらない,そうすると赤字が出ます。そしてお金がなくなります。そこで絶えずトップセールスを行っていました。ベンチャー企業の真髄はここじゃないかと思います。それを社員に任せる,あるいは一般の幹部に任せるのではなく,社長自らがお客さんのところに乗り込んでいく。そして仕様も何も決まっていないものを,お客さんがこれを作れるかと言えば,「はい,わかりました。やります」,そして「おい,注文を取ったぞ。工場を建てるぞ」というかたちでやっていきました。すなわちリスクは全部社長が負っていく。これが成長の根源ではないかと思います。
営業的な方針としては,なにはともあれ売り上げを伸ばしていかなければいけない。それには具体的な競合メー力の名前をあげて,時には,日本サーボであったり,あるいは山洋電気であったり,マブチモータであったり,そのような目標企業を設けて,絶えずそれに向かってチャレンジしました。
また営業所をつくる場合,お客さんが「来い」と言えば,すぐ行ける場所であったり,営業方法は,なにはともあれ足で稼ぐ。できるだけ多くのお客さんのところに行く。そのように行ってまいりました。すべての基本は一に営業,二に営業,三,四がなくて五に営業と言い聞かせてきました。いくらよいものを作っても,ものが売れなければビジネスにならないということから,われわれはそのような気持ちでやってまいりました。
いまでもこの精神は変わりませんが,会社が大きくなると同時に,これだけではいけないと思っております。これからわれわれの会社は21世紀に向けて,さらに変化していかなければなりませんが,これから大企業になるには,いろいろな変化についていかなければならないと思います。われわれは部品メー力です。将来,完成品メー力にもなっていくかもしれません。さらに2015年には1兆円企業になろうという社内的な大きな目標を掲げています。それにはM&A,つまりほかの企業の買収あるいは合弁等も行っていくことになるでしょう。そしてまた社内体制そのものも変わっていかなければいけないでしょう。社長だけの力では会社は大きくならない状態になってきました。集団指導体制ということが必要になってきました。
IQ,EQのバランスも必要になってきています。日本の企業は,社員に家族的あるいは集団的というか,どちらかというと忠誠心を求めますが,忠誠心だけでもだめです。独自性を持った人たちも要求されてきます。
日本電産は若い企業とはいっても,もう23年たちました。これから大企業に向けて頑張っていきたいと思います。多少長くなりましたが,日本電産の紹介として補足させていただきました。
見城 1つだけ私から質問させていただきます。 一に営業,二に営業,三,四なくして五に営業ということなんですが,技術者もやっぱり営業でしょうか。技術を育てる,人を育てるというのは,どんなことがあったのか,一言コメントお願いします。
小部 技術といっても,若い社員が主体で開発を行っていましたから,はっきり言って学校で習ったことはあまり役に立っていません。これは先生方には申しわけないことですが。そうするとだれが育ててくれたか。やはりお客さんだと思います。お客さんには機械屋さんもいれば,電気屋さんもいる。またそれをまとめてくれる経験者もいます。いかに多くのお客さんに若い社員が飛び込んでいくか,またお客さんにいかに工場に来てもらって,一緒に開発をするか。あるいはお客さんにいかに教わるか。これが日本電産の技術者教育の根源ではなかったかなと感じています。
見城 そのほか日本電産のことについて何か聞いてみたいという方がいらっしゃったら,いかがでしようか。
福田((株)シスコップ) 私は,訓大の卒業生で,橋本で開業させていただいています。会社を大きく成長させていくために,営業活動に力をお入れになったというお話をうかがったんですが,そういった体制の中でやってきたときに,社員のみんなが精神的についてくるのが大変だということになりませんでしょうか。私どももずいぶん厳しく社員にいろいろなことをやらせようとしているんですが,心の病気のようなことに結びついてしまう場合が出てきています。そのへん非常に困っています。そういったご苦労の話とか,いい対策とかがありましたら,ぜひ教えていただきたいと思います。
小部 私も新入社員,あるいは中途採用の面接のときに,日本電産というのはこういう会社だといって,夢を与えるかたちで面接をします。そうすると,いざ入社すると,現実と夢とのギャップがものすごく大きいわけです。こんなに遅くまで仕事をするとは思わなかったとか,あるいは頑張っているのだが,なかなか効果が出てこないとか,いろいろな悩みが出てきます。中には退職される方が出てきます。企業ですから,当然人間を大事にしなければいけないということはわかりますが,やはりある限度においては,退職される方もやむをえないと思います。そういう意味では割り切った考え方も必要と思います。
最近よく言われるのは,冷酷と温情のバランスです。厳しいことは厳しいことで,きっちり説明し,しかし厳しいことを言ったあとのフォローも大切です。「ちょっと一杯飲みに行こうか」と言って,仕事をはずれたコミュニケーションをしていく。そうすることによって辞めたい,辞めようかなと思った人間が,じゃあ,もう一度頑張ってみますというかたちで残る場合もあります。
独身者と既婚者では考え方が違います。独身者はすべてではありませんが,無責任な方が多いですね。既婚者の方はやはり家庭という責任があります。そういった方々は本当にきちんと話してやれば,もう少し頑張ろうかということになります。
あるとき,ある社員が辞めたい。なぜだ。きついからだ。仕事がおもしろくないと言います。じゃあ,一度奥さんを呼んでこいと言って,奥さんと一緒に食事をする。そして奥さんと2人を前にして,どこでも同じだぞ。隣の芝生は青いよというかたちで話して聞かせる。われわれもどんどん中途採用を受け入れていますから,中途採用の人たちの悩みも参考にして話してやる。そうすると最近の女性は男性以上にしっかりしていますから,奥さんに「あなた,もう少し頑張りなさい」といったかたちで引き止めてもらえる。働くことはどこへ行っても同じ厳しさで一緒だということです。
見城 ここでの質問はほかにあるかもしれませんが,今度は次の観点から一杉さんにお話しいただこうと思います。その観点というのは,社長というのを,この中で経験されておられるのは,まず青柳さんは社長ですね。一杉さんは丸昇電子のときは社長でしたが,いまは一従業員です。社長という立場と,社長でない立場から,人の扱い方とか,そういう問題はいろいろご苦労されたり,あるいはこういう見方もある,ああいう見方もあるという経験談がおありじゃないかと思います。ここでOHPなど使いながら,いかがでしょうか。
一杉 先ほど小部さんがおっしゃったご質問に対する回答も,やはり何ステップかあると思います。例えば小さな小さな2人か3人の企業のとき,数十人単位のとき,あるいは万の単位のときとだいぶ違ってくると思います。
いま見城先生がおっしゃったことと離れますが,例えば私のところで,ほんの4~5人のころ,あるエンジニアがやはり登校拒否じゃないですけれども,なんとなく出社拒否を起こしてきました。おれはもう疲れたから辞めたいとか,そこまで言ってくれればもっと楽なんです。それ以前にやはり心の部分が出てくる。そうすると朝起きられない。
当時,彼は相模原の付近に住んでいました。私どもの工場は調布にありました。来なければ仕事にならないわけです。やむをえないですから,毎朝相模原まで迎えに行きます。それを10日,20日続けているうちに,本人もついにあきらめました。私どもの会社は望んだわけではないですが,たまたまこういうガレージを借りてしまった。私のうちはここから歩いて10分のところにありました。ところが先ほどの秘密工場はここの学生寮でしたし,学生もどこかに下宿しているとしても,この付近です。見城先生のところで登校しなくなった弟子というのもそうでした。彼もなかなか優秀な人間でした。ただ心にだいぶ病を持っていました。学校にいるときからです。
しょせん当時の私のところに来る学生,あるいはどこかの会社を辞めてきますという人間は,みんなどこかおかしいです(笑)。たった1ヵ所か2ヵ所,優れたところがある。小さな小さな零細企業では,目をつぶるしかないでしょう。その人間ができること,ハンダ付けがうまかったら,ハンダ付けだけやらせる。あるいはソフトウェアをいじるのが好きだったら,それだけいじらせる。あとのところは腹が立つけど目をつぶる。心の病を持ってきたら,私は医者じゃないから治せない。だけど運送屋の代わりをして,人間を運ぶことはできます。だから運びに行くわけです。
恋をしている人間もいました。これは心の病ですね。今度は逆に本当に体に病を持ってしまった。ある人間は手をけがしてしまったわけです。手をけがして,おまけに足までけがをした。これが江東区大島のほうに住んでいる。会社まで毎日通えません。これもしょうがないから車で迎えに行きます。私は経営者としてやっていたとき,何をやっていたかといったら,一番下級の社員のさらに下の仕事をやっていたわけです。朝みんなが来れば,コーヒーを入れてあげる。おお,おはようというような調子ですね。みんなが一生懸命仕事をします。コンピュータで何かやっていて,フロッピーをあちこちけっ飛ばしてある。これは財産です。一生懸命片づけます。やっていることはそういう仕事ばかりです。
先ほど先生のおっしゃった,社長という立場と従業員という立場となったときに,小さな小さな企業では社長の仕事は一番下の仕事ではないでしょうか。だれかが設計をしてくれる。だれかが作業してくれる。だれかが総務的な内容をしてくれる。そういうものに対していかにサポートしてあげられるか。いかにそういう人間が何かをやれるチャンスを作ってやれるか。それだけじゃないかという気がします。社長あるいは従業員,このへんの構造を1枚の絵にしてみました(図1)。
これはわれわれが手に入れた人間です。本当に一目で表すものだと思います。プラス思考を持っている人間とマイナス思考を持っている人間がいます。これは当然のことです。各々がアナログ的な思考とデジタル的な思考を持っています。たまたま私が手に入れたのは,マイナス思考の人間で,累積型か豹変型なんです。
このうちで最も悪いのはデジタル思考の豹変型です。あるときまではすごく調子がいいんです。何かの拍子にパッと変わってしまう。その変わることが最初予測できない。これをなんとかプラス思考の開放型か,前進型にもっていかなければならないわけです。そのときに微分や積分をやってもどうにもならないということです。
ではどうやっていまのマイナス思考からプラス思考にもっていくか。プラス思考にいけば開放型でも前進型でもいいです。そのタイミングに応じて,育っていけばいいです。あるものを開発しようとしたときに,前進型のデジタルタイプを使います。これはとりまとめに全然責任を持ちません。けっ散らかすのが好きなんですから。いっぱいけっ散らかしておいて,開放型のアナログ人間をここに使っていくという組み合わせをして,なんとかハイテクの端っこの仲間に入って,しっかり利益をあげることができました。
決してうんと大きくなれなんて思ったことはないです。とにかくこれから一生懸命遊ぶんだ。遊ぶ資金を作るんだ。そのためにはどんな方法でもいいんだ。会社というのは生きていくための1つの手段でしかないというのが僕の考え方です。
いま働いている会社でも,本当はこの考えは受け入れてもらっていないんです。でもある一部分ではいまの会社に非常に役立っていると思っています。決して私はマイナス思考ではないんです。豹変もしません。いままでの悪い部分を積み重ねてきて,どこかで爆発するということもないです。プラス思考のどこかにいるはずなんですが,そのときによって経営者がどうやって見てくれるかで違ってきます。
経営者と従業員という関係はこんな関係になりませんか。ちょっと足がひ弱なんですよね。右側に経営者,左側に従業員。各々が持っているミソ。ミソの中身はそう変わらないんですが,分解の仕方が違ってしまって,経営者というのは,何でもよく思いつきます。あるいは働いている従業員,ほとんどの人間は仕事以外のことを一生懸命考えています。これも事実です。いま私も一生懸命仕事はしていますけれども,仕事の合間,合間に明日どうやって遊ぼうかと一生懸命考えます。
ところが経営者をやっている間,それはありませんでした。24時間仕事のことを考えていました。思いつくあまり,いっぱい思いついたことを従業員に言います。結果として何になったのかというと,あっちもこっちも触りまくってはポイ,これが従業員にえらく迷惑をかけたと思います。
例えば言葉あるいは心の感情が,いま簡単にロボットで表されるわけです(図2)。
これも自分ではなかなか傑作だと思っています。いまもそうですが,働く仲間も含めて社長あるいは部下にも言っている内容がこれです。とかくみんな脳の中にいろいろな意味で知識を持っている。けれどもお前たちの知識はネットワークを組んでいない。だからちっとも知恵になっていない。これを知恵にするためにどうするのか。まずお前が心の中で思っていることを口に出して言ってみろ。あるいは何かを紙に書いて表現してみろ。当然これを相手の人間は目で見て判断してくれる。あるいは耳から聞いて判断してくれる。要するに脳の中に入れて,またその結果を口や手で返してくれる。
日光に三猿がいます。ほとんどの人間は聞かないふりをしているんです。ほとんどの人間が見ないふりをしています。彼らが決してやらないのは,口で言わないこと,あるいはある文書で示さないこと,あるいは記録に残さないことです。これさえ守ってもらえばいい。つまり語るか書くかしてほしい。先ほど小部さんが学校ではろくな教育をしてくれないということでした。当然といえば当然なんですが,われわれのところに来るときには,もう基礎の基礎は彼らは積んできたわけです。そこから先はそのへんの新聞を見て,あるいはどこかの図書館に行って,いくらでも彼らは学ぶことができます。われわれはそこで算数や英語を教えてもどうにもならない。それ以上,お前たちが見てきたものを繰り返して表へ出せ。受け取った人間はまた返してやれ。いつも教育としてやっているのはこれだけです。
私はいま1人の部下として私の上司がおります。10年間で現在約200億くらいに風船みたいに膨らんだ企業で,上司に言っていることがあります。先ほど小部さんのお話の第2ステップから第3ステップのところです。要するに少し会社としてのかたちを整えようとしてきているわけです。会社としてのかたちを整えようとしてくると,会社の中はめちゃくちゃになってきます。
そのめちゃくちゃになってくる理由は何かというと,経営者には思いつきがいっぱいあります。だからああせい,こうせいと出てきます。当然あっちこっち触りまくってはポイします。ここのセミナーはいいセミナーだと思っていますが,会社をよくしよう(大きくしよう)と思うあまり,くだらないセミナーに出ていきます。どこかでニュースを聞き込んできます。経営者の言葉からは成功例しか出てきません。自分の中には失敗例は残すんです。けれども不思議なことにこの耳を通したものは2ヵ所におさまります。失敗例は自分の中だけ,成功例のみ口から出てきます。何かことがあったら部下と親分という関係に戻ってしまう。「この野郎,お前なんか辞めてしまえ」これはやはり言ってはならない言葉です。
一方では部下のほうは先ほどのホウレンソウ(報連相)がないわけです。経営者であるか,従業員であるか,ここで真っ二つに別れます。比較的不思議なのはここです。従業員は根拠のない安心感を会社に持っています。会社というのはつぶれない。日本の国家はつぶれないと同じようなことを言っているんです。ところが経営者はいつもこうです。明日はこの会社はあるのか。いま3ヵ月注文があるけれど,1年先にもあるのかといつも不安感を持っている。もうこの関係を永久に断ち切れないわけです。だからロボットの左手は経営者,右手は従業員として考えればいいです。途中をボルトでつなごうが,溶接機でつなごうが,つないで動いているのは企業だと思います。
見城 今度は青柳さんに,こういう観点でお願いします。先のお2人の方は,主として日本で仕事をなさっておられる。青柳さんは現在は日本におられますが,だいたいはアメリカとかヨーロッパ,国際感覚の中でベンチャービジネスを行っておられます。日本とはいろいろ違いがあるかと思います。そんな観点から皆さんにお話ししていただければと思います。
青柳 日本と海外とのベンチャービジネスの差を含めて,私どもの紹介をさせていただきます。デジタルストリームというのは開発会社です。どういう内容の開発を主に行っているかといいますと,必ずものごとには入力装置があり,それをなんらかのかたちで処理するプロセスがあります。それをなんらかのかたちで表現するアウトプット,またその中に情報をためておくストレージ,だいたいこの4つの分野があると思います。
これはコンピュータに置き換えると非常に簡単なんですが,皆さんがお使いになっているキーボードが入力装置であり,その中に入っているCPUというのがプロセスのチップです。ときどき画面に絵が出てきたり,プリンタに出てくる。これがアウトプットだと思います。その中にハードディスク,最近はCD,そういうものがストレージというかたちで置き替わっています。
ところが開発会社とすると,コンピュータだけではありませんので,仮に車の用途を考えると,インプットというのは皆さんがハンドルを回すことであり,それを中のコンピュータが処理して,例えばアウトプットはタイヤが曲がる。その中でストレージ,最近ボードコンピュータというメモリがのっていますけれども,走行記憶装置が中に入っていたり,例えば皆さん,会社の中でミーティングをやるときに,だれかがなんらかのかたちのインプットをするわけです。それを会議という場でプロセスをして,なんらかの結論のアウトプットが出てくる。記録としてとっておく。この流れは私どもすべてあると思っています。
その中でデジタルストリームという会社は,この4つの部分の3つをやろう。プロセシングというのは最近コンピュータのCPUが非常に中心になっていますので,これはなかなかベンチャーとしては手が出せないところである。
ところが入力とかストレージ,アウトプットという分野は割と古い技術が使われている分野なんです。私どもはいまコンピュータを中心にやっていますけれども,例えばインプットの部分でいいますと,キーボードは昔からタイプの流れでずっときています。非常にいいインプットなんですが,仮にこれでゲームをやってみようと思うとなかなか使いづらいものがあります。またはこれで車を運転しようというと,インプットにならないんです。ということはそれなりの用途に向けた入力装置を開発していかなければいけない。
コンピュータは非常にわかりやすい分野ですけれども,これは普通の生活の中で,例えば冷蔵庫のドアの開け方,これもなんらかのインプットの入力装置なんです。そういう見方をしていきますと,まだやることはたくさんあるだろう。
それとアウトプット。いま皆さん,家庭でテレビをご覧になっていますけれども,非常にいいアウトプットです。ところが感情をなんらかのかたちで,もう少し違った体感的なものをアウトプットさせようといったときに,例えば振動があったり,大きな音を出したりしてもよいわけです。皆さんプリンタはお持ちですが,あれ以外の方法はなんだろうというところから,私どもは始まっています。
あとストレージですが,これはどういうかたちであれ,情報が多い中で,必ず皆さん,ファイリングしたり,本をとっておかれると思います。これは捨てる方はいないんです。ということは景気が悪かろうが,よかろうがデータというのはたまっていきます。そうなると開発会社として考えなければいけないのは,そのデータをいかに安く,使いやすくとっていかなければいけないか。その技術をやっていこう。だいたいこれが私どもの開発コンセプトです。
先ほど海外の話が出ました。私の経験を言いますと,ヨーロッパに5年おりました。アメリカで会社をたてて上場させましたが,学校を含めると,アメリカでだいたい17~18年です。いま日本でデジタルストリームが8年目に入ったところですが,先ほど退職される方,またはいろいろ問題を持っているというご質問があったので,それをちょっとお話ししようと思います。
私自身は東京の浅草生まれです。ですから義理人情の世界に生まれ育った人間なんですが,事業に関して考えると,これは無理だろうという結論を持っています。いま皆さん,インターネットというネットワーキングを盛んにお使いになって仕事をやっていると思います。私どもの開発会社は,特にアメリカ,ヨーロッパと一緒にやっていますが,その中には感情,義理人情は入りません。単純にコンピュータの画面でネットワークを使って開発が進んでいく。そこでチームをどうやって作っていくかというのが,私どもの目標です。ですから飲み会もありません。もちろん社内の連中はやっていますが,1つのプロジェクトになってきますと,例えば私どもの製品で考えても,マレーシアで作られます。部品が日本から行ったり,中国から行って,マレーシアで作られた製品がヨーロッバに行ったり,アメリカに行ったりしています。そういうグローバルな動きをしている中で,日本の精神論をアメリカのエンジニアに話しても通じません。そこが私どものちょっと違うところだと思います。極力そういう精神論を避けていこう。そういう中でどういうふうに開発をタイムリーに進めていくかというところが僕の考え方の原点にあります。
例えばだれかが辞めたいとなったときに,まずその本人に対して,何が一番ベストなんだろうかというところから入ると思います。その理由は会社というのは,1つは先ほど安堵を求めるところとか,いろいろお話がありましたが,僕は会社というのはこれから消滅していくだろう,つまりこれからそういうボーダーはなくなっていく方向にあると思います。例えば製品が世界中で動いていくときに,アメリカのマーケット,ヨーロッパのマーケットは連動しています。日本のマーケットも連動しています。その中でボーダーを考えながら仕事としていくということは無理だと思います。
それがだんだん企業が移ってきて,例えば私どものような小さいところでも海外の大手と共同で開発しています。インターネットの前に座って開発を始めますと,会社の「か」の字も出てきません。基本的に技術と製品の仕様,生産のスケジュール,そういうものの中で開発が進んでいきます。会社以上にそういうプロジェクトのネットワークのつながりのほうがだんだん強くなっていくような気がします。
ですから本人が退職したいと言ったときに,僕はその方がどうなったら一番いいだろうというところで,必ずコネクションがとれるようにしておこうと心がけます。こういう狭い業界ですから,将来必ずどこかで仕事をします。そのときに一緒にできればいいじゃないか。あなたが幸せになって,もっと技術を蓄えてくれれば,それは間接的に僕たちのプラスになるんだということで,僕はたぶんお話しすると思います。
ただそういっても,根は江戸っ子ですから,義理人情があります。実は私どもはデジタルストリーム以外に6つの会社を持っています。グループでいくと,だいたい年商で300億くらいになっています。辞めたい人は,その6つの会社のどこかに入れます。例えば台湾に持っています。そこの中国の工場関係の仕事をしてもらったり,日本で貿易の関係をやってもらったり,極力自分のグループ内で動けるようなことをやりますし,私は会社を辞めたい人間に2つ会社をたてています。なんらかのかたちで将来的にコネクションがとれるようなかっこうでもっていきたい。先ほどの質問は非常に難しいと思いますが,僕が答えるとしたらそういうところかなということです。
先生から言われているヨーロッパ,アメリカ,日本の中でエンジニアの教育はどうなのか。私は5年ほど480人くらいの研究所にいました。フランス人が20%,ドイツ人が60%,20%がいわゆる東欧のほうから来るトップクラスのエンジニアですが,そういう人たちと一緒に,Thomsonという会社は年間100プロジェクトくらい動きます。その中でエンジニアをどう教育していこうかということで,実は最初大きな失敗をしたのが日本的な発想で,すべて精神論から入りました。ところがいろいろやっていくと,そういう精神論は続きません。まったく違う文化の中で生活している人たちにクオリティだなんだっていろいろやっても無理でした。
私の意見ですが,最終的に技術者というのは自分の技術を会社に売る。その対価として給料はいくらだというかたちの個人的な経営者に最終的にならないとだめだと思います。ですから精神的にどうだこうだはまずは抜きにして,自分が食っていけるだけの技術を自分で作れ。そういうような教育を僕はなるべくするようにしています。
ただし会社とプライベートは分けるべきですから,会社が終わってプライベートになったときは家族付き合いをしています。それはなんとか家族付き合いをして仲よくなっておこうという話はまったく抜きにして,おもしろい友達だからやろう。家族で付き合ってみるのもおもしろいでしょうし,それはそれでプライベートでとっておきますが,基本的に技術者の教育は,その方が1人でなんらかのかたちで自分の技術を企業側に売れる。それまでの力を蓄えさせるというのが僕の持論です。あとはネットワークでどこにいても仕事ができます。必要なときに,どの人間とどの人間を集めればプロジェクトは動く。これがわかれば仕事はできると思っています。
ただしいろいろ悩みは出てきます。そのときは残念ながら僕も飲み会だ何だとときどきやりますが,外国人とはやりません。そんなようなことが僕の経験です。
見城 皆さんの中からいかがでしょうか。ご質問してみたいという方がおられますか。どうぞ。
佐渡友(サードテクノ) 私はさる産業用ロボットの企業の開発をしていましたが,今年の春そこを退職し,現在1人で勝手に会社を作ってやっています。青柳様からいまインターネットを使い,そこでいろいろなお仕事をなさっているというお話をおうかがいしました。私もインターネットにはホームページを出しています。実は私はいま何をしたいかわからないような状況で,それを探すために辞めたような状況です。そういう中で技術者同士の交流が始まっています。お互いにEメールなどを通じて,技術者同士こんなことを考えているということを話しているんです。
実際に何のために仕事をするのかというのが,現在のテーマなんですが,生きるために仕事をするのか,それとも自分がその中で自分の存在意義を見つけていくために仕事をするのか,というような大きな2つの考え方ができると思います。
先ほど,一杉様から一芸に秀でている人間もいるが,食わなければいけないので,仕事をするんだという方もいらっしゃるというお話をおうかがいしました。皆様の長い経験の中で,その2つの態度,生きるために仕事をするのか,それとも自分のなんらかの表現方法としての仕事なのか。
それぞれ個々の中に2つのものを持っているとは思うんですが,今後に向けて技術者が進んでいこうとするとき,生きるためでなくて,自分の表現方法のアイデンティティーの確認としての仕事の仕方ということについて,どのようにお考えなのか。お話をおうかがいしたいと思います。
見城 どなたにおうかがいしましょうか。
佐渡友 インターネットをお使いだというお話で,青柳様,一杉様,それから実際管理なさっている方ということで,特に大企業の中で働かれる方の仕事に対する姿勢,いろいろな方がいらっしゃると思いますので,小部様にもおうかがいできたらと思います。
見城 では青柳さん,いろいろありましたが,どれかお選びになってお願いします。
青柳 いま感じたことをストレートにお話しさせていただきますと,非常に甘い発想だなというところが感想です。といいますのは,僕は技術者に何をしてあげたいかというと,海外を見てこいと言います。私どもに入社した人間は即アメリカ,ヨーロッパに回しています。
いま日本は非常に物流がよくて,何でも手に入りますが,例えばヨーロッパの東ドイツの田舎に行った場合,食べるものもままならない状況の中で技術者は働いています。そういうようなところを見ないで,いま自分は生きるために仕事をするのだろうか,それとも楽しみのために仕事をするのだろうかというのは非常に狭いところで判断をしていると思います。
それはどう判断しようといいんですが,ただその判断が日本国内のインターネットのある方のホームページだけの情報でなされるのは非常に怖い問題です。それよりはもっと広い情報をとれるような環境を作ってあげる。会社として,または僕個人としてもそういう方々にできる限りのことをしたい。それはインターネットの使い方の間違いじゃないと思うんです。ただインターネットが届かないところがたくさんありますから,例えば中国の,あのようなキャンティーンで食事ができるような,ああいうところで食事を一度してみると,実際本当はこういうところで安い製品ができているんだ。そこまで見たうえで,自分の技術者としての判断をするべきだと思います。そういう意味で,非常に偏った情報の中の判断が怖いと思っています。
一杉 いまのお語のなかで,基本的に人間,本音の部分と,建前の部分があると思います。本音の部分はやはり技術を追い求めていきたい。夢を追い求めていきたい。地球という大きな規模で考えれば別なんでしょうが,アジアという中の,また狭い日本という国,特にその中でも山口県,いま私が住んでいるところは何十年前かの日本なんです。そういう世界の中で生きていると,やっぱり食ってからだよと。そこである余禄をためて,プライベートな部分で夢を追ったらという気持ちです。
私が会社をやっていたころ,最初のころは食うのが大変でした。2~3年たったら楽に食えるようになった。そのときにこういうことをやったことがあります。ともかくみんな仕事は3時で終えろ。会社は当時5時まででしたから,2時間,とにかくお前たち,好きなことをやっていい。好きなことをやるために月間20~30万だったと思うんですけれども,何でもものを買ってきてやっていていい。その中で将来何か生まれてくればと。
その当時,私のもとで働いていた彼らに何か夢を持てと言っても,何も夢を持っていないんです。いまほど情報がなかったんでしょう。コンピュータもまだまだ8ビットの機械が動いていた時代です。いまだったら確かに青柳さんがおっしゃるように,いろいろな意味で夢を持って,ある部分追いかけられるかもしれないです。ですから私と青柳さん,あるいは小部さん,あるいは先生,あるいは皆さん,そのときどこにいたか。周りの環境はどうであったかで,ずいぶん違うんじゃないですかね。
小部 実は今回のこのシンポジウムに見城先生から,「小部君,出てくれないか」,ベンチャー企業と技術者育成だ。私よりもうちの永守社長じゃないですかと聞いたんです。というのは私が日本電産を作ったのではなくて,創業に参加したんです。そうすると見城先生は,永守君はもう有名なんだ。あの人はスターだ。それと一緒にやっている小部君がどういう苦労をされたか,それを聞きたいんだということを言われました。
企業というのは大きくなればなるほど社長1人では絶対にできません。その下に社員がいて,そしてその社員もナンバー2がおり,ナンバー3がおり,そのように1つのピラミッド型になっていると思います。そういう中で私自身がいますから,何のために働くんだと言われても,もともと私は先輩・後輩という関係が大嫌いで下宿したわけですが,そこにたまたま社長がいた。これはすぐ飛び出したい。こんな先輩のもとでガミガミ言われたらかなわない。しかし一方では先輩・後輩が非常に大きなきずなになりました。
それで「小部,日本電産をやるから,お前来るか」。私にとってみれば,先輩が来るかということは,もう来いというのに等しかったわけです。それで先輩が言うんだったら,「しょうがない,行こう,やろうか」といってやったのが,私が日本電産に参加したきっかけです。
そのときに大きなことをやりたいとか,あるいは日本一になりたいとか,うちの社長はそう思ったかもしれませんが,私はそんなことではなくて,とりあえず先輩が来いと言うからついていった。その結果として,いまこの立場にいるということです。
こうしたときに仕事とは何かと言われると,23年間を振り返ってみれば,やはりお金がほしい。あるいは立派な生活をしたい。大きな家に住みたい。それが私の本音じゃないかと思います。しかし一方では,若い人たちに金儲けとははこうするんだ,ああするんだと言ったところで,私の経験をそのまま若い人たちに同じことをやれといっても,なかなかできません。
現在の立場において私が若い人たちに何を教えていくのかというと,仕事の目標とは何か。それは金儲けもあるだろう。自己成長もあるだろう。しかし仕事というのは問題を解決するのが仕事だと私はいつも言っています。われわれの生きている世の中ではいろいろな問題が起こります。それを解決するのが仕事です。仕事をやった結果として目標が達成できるのです。
昔,物理の授業で仕事というのは,「ある物体をある距離動かす,そのエネルギーをもって仕事という」という定義がありました。あるものをあるところに動かすのに,エネルギーを使います。したがって仕事とは行動すること。行動した結果として,それがインターネットであろうが,あるいは精神論であろうが,最後,地位や財産や品格が身についてくるものだと思います。私自身,いままでやってきたことを若い人たちに対して基本的な考え方だけは教えていかなければいけないと思っています。
見城 技術者というのは,技術を育てればベンチャー企業ができるかどうか。こういうことを少し考えてみようじゃないかというのが今回の問題点です。問題解決をいまからしていきたいと思います。
今回,列席の方々はいろいろな企業の方々がいらっしゃいます。昔ベンチャーで,いまは大きくなられたミネベアの専務取締役を勤められた江川さんがいらっしゃいます。先ほどの佐渡友さんのご質問,インターナショナルな環境でいろいろなことを行ってこられた中で,何か1つ聞いてみたいということがありましたらお願いいたします。
江川 私は学校を卒業して,山洋電気というモータの会社に入り,15年勤務しました。その間にアメリカへ渡り,アメリカの会社に勤めて,また日本へ帰って,また山洋電気に帰ってきて,ミネベアへ移りました。
ミネベアというのはベアリング屋ですが,ベアリング以外の仕事をやったらおもしろいということで,ベアリング以外の仕事をやりました。表題に技術者教育とありますが,私が技術者教育は一番長いんじゃないかと思います。年も年ですが,40歳になる前から技術者教育をしてきました。私は入ってきた新卒の技術者の連中に会社を乗っ取ろうと言います。金では乗っ取れないが,技術者は会社を乗っ取ることができる。だれだれさんがいないと,この製品はまとまらない。能力で会社を乗っ取ることができる。そういう思想をまず私はぶち込みます。
それで教育していくんですが,教育してきた中には,スピンアウトして,奥さんと2人で始めてもう100人くらいの人間でやっている会社,モータのドライバを作っている会社,モータ自身を作っている会社とか,6社くらい育てています。それはやはり技術者として教育しました。私も技術者ですが,技術者として教育していった結果,会社を飛び出して新しい会社を作って100人くらいの小さな会社をやっている人たちとは,私は十字を切って人生を誓い合っている連中です。
私も浅草生まれで,戦災で3月10日に焼けるまで住んでいました。そういう意味では下町の江戸っ子気質が抜けないんです。私は企業を育てるというのは,経営的な感覚をつけることも大事なんですが,やはり工業製品を扱ううえには,やはり技術者をきちんと教育するということが非常に重要ではないかと考えています。
見城 若いベンチャービジネスマンが何人かいらっしゃると思いますが。そのほかにいかがでしょうか。
小路(サイエンスパーク) 小部さんにお聞きしたいんですが,私は創業当時から無理な仕事を押しつけてきた部下が1人おります。それからいろいろなところからアウトローの人間,好きなときだけプロジェクトに入って,あとは自由にしているという人間が3人居候しています。
とにかくおもしろい人間を集めるということで行っていますが,やはり腹が立つことがあります。するとどうしても一番ダメージが少なそうなやつに当たります。カヤモリという男がおり,とにかく週に1回か2回,本当は違う人間に頭にきているんですが,違うことを見つけてカヤモリを叱ってしまいます。わかってくれているだろうと思いながらも。きっと小部さんもそういう立場をご経験されたんじゃないかと思い,一番始めの食うための時期のころにかえっていただき,そのときに社長に言おうとすると,こういう言葉があるとか,そういうアドバイスをいただければと思います。
小部 私も同様にそういう経験を直接やったわけです。いえ,やらされたわけです。当然社長にすれば,直接の後輩ですから,本当は別の人を叱りたいんだけれども,私のほうに当たってきます。若かったですから,どうしてこんなに叱られるんだ,もう辞めてやろう。もうこんなのいやだと思い,実は退職願も書きました。しかし一晩寝ると忘れました。そして書いた退職願はその場で破って捨てる。そういったことが3回ほどありました。
これはなにも社長と社員の間だけでなく,それだけでなくて,夫婦の間でも同じだと思います。しょせん他人が一緒になって問題解決をやっているわけですから,その時々の感情でいろいろな言い方をされます。私のことで恐縮ですが,結婚するときに約束したことは,絶対出ていけということは言わない。出ていくということも言わない。別れるということも言わない。別れろということも言わない。これは伝家の宝刀を使わないというお互いの暗黙の了解として夫婦になりました。
これと同じように社長と私の間でも,1つの暗黙の了解というか,いろいろむちゃくちゃ言うが,最後の言葉を吐くなよ,こちらも最後の言葉を吐かないという1つの基本を持っているわけです。これはすなわち先輩・後輩で,学生時代に同じ下宿にいましたから,ある程度わかるわけです。
ところが途中から入社してくる方がいます。やはり文化の違うところから入ってこられますから,時として社長は厳しいことを言い,これに対してプッツン切れてしまうこともあります。それで辞めていかれる方もいます。最近では,ある者に厳しいことをいう場合,私をそばにおいておくんです。そしてあとで,社長はああ言っているけれども,実はこういう意味なんだ。あなたに期待しているということなのです,とホンヤクしてやるのです。すなわち接着剤の役目です。ただ,接着剤といっても,いろいろありますから,あまり叩きすぎると接着剤もはがれますと冗談を言います。ナンバー2の役割というのはそういう役割じゃないかと最近思っています。
見城 いま,小部さんから接着剤という言葉がありましたが,まっしぐらにとにかく走っていく経営者と,それについていき,ひょっとしたら本当の実力は影の実力者のほうがあるかもしれないというくらいの人がいないといけないのかと,見ています。一杉さん,その点はいかがなものでしょうか。
一杉 僕はナンバー2の仕事というのは許してやることだと思います。ナンバー1の仕事はやっぱりどこかで拾ってあげることじゃないですか。ナンバー1は簡単にいえば株を持っているよ,あるいは年収も一番高い。これはある意味では何でも自由にできます。自分より下にあるものを,ちょっと痛いけどいまは我慢しろとぶん殴っても,どこかで許している間に拾ってあげることじゃないですか。私はそう思います。
見城 青柳さんの友人のビル・ゲイツのマイクロソフト社ではこんなふうらしいというようなコメントがありますか。
青柳 マイクロソフトはいま9000億くらいの年商になっているはずですが,彼の周りには6人おります。ビル・ゲイツ自身は確かに弁護士の息子で非常に法律に長けた人ですが,ビジネスに関しては(?)スティーブ・バルマーという副社長が基本的に会社を動かしているようなものです。ビル・ゲイツはビジョンを持つということ,どっちへ進んでいくという旗振り,それといわゆる広告塔で,世界中を走り回るという感じです。会社の中の経営そのほかは,確かに最終決定はしていますが,会議なんかに出ると副社長のほうが通常の判断は多いんじゃないですかね。
見城 いまのは6人ということだったけど,何人までのお話を聞いたんでしょうか。6人周りにいらっしゃる。
青柳 いわゆる経営会議というところでチェアマンがビル・ゲイツで,ボードのメンバーが6人それぞれの分野,分野で成り立っているという感じです。
非常にアメリカ的な経営で,各分野のプロが集まっている。そのプロの判断に委ねて,よっぽど変なことがないかぎりは,その分野の長が判断していくというかっこうで成り立っていると思います。
見城 これは非常に高いレベルの問題ですね。今度はもう少しミクロに見たときに,辞めたいとか,辞めてやるとか,そういう問題はアメリカではどんなものなのでしょうか。そこになだめすかしたりというようなものがあるのか,そんなことは何もないのか。
青柳 ある意味では日本以上にあると思います。なだめすかし,そのほかは非常にたくさんあります。ただ最終的に,逆に経営者ではなくて,雇用されているほうが1つの会社に一生骨を埋めるという発想がありません。基本的に自分の技術が上がって,給料のいいところに移れるのであれば,1つのステップとして見ていますので,この人がいなくなったら困るので,なんとか引き止めようというのは経営者側であって,転職したいと決めた人はほとんど転職すると思うんです。ヨーロッパの特にドイツなどは平均でいうと定着率が約10年から7年です。アメリカは最近短くなって,また延びているんですが,だいたい4年が1つの会社にいる期間です。毎日そんなことが起こっていますので,あまり飲みに行って残れよ,残れよとやっている暇もないと思います。それ以上に必ず責任分担を決めておいて,ここまでやらないと辞められないという契約でまず押さえておくはずです。それが終わったら,今度逆に辞めていってくれというほうが多いと思うんです。
見城 皆さんの中で,どなたかにこういうことをうかがってみたいというのはございませんか。
福田 実は最近,気がついたことなんですけれども,例えば戦争という五十何年前の話,その影響をおそらくわれわれはずいぶん引きずっているんじゃないかということです。ジェネレーションギャップという言葉が言われて久しいと思いますが,私は37歳になったところなんですが,私より上の年代と下の年代で,ビジネスに対する考え方は極端に違うんじゃないかと最近思うようになってきています。
私より上の年代の方が,社員を注意するときに,例えばここまでちゃんとやっていかないと飯が食えなくなる。会社がつぶれると,お前たちの家族も路頭に迷うじゃないかという言い方を,ほとんどの方がされているんじゃないかと思います。ところがその言い方は,はっきり言ってまったく通用しない。われわれより若い年代の人たちは,例えばコンビニエンスストアのようなところの裏に行くと,食物がありますから,そういった意味では,要はフリーターをやって食っていけるわけです。ですからそこの会社に対して,終身雇用とかそういうふうな概念を持つ必要が完全になくなっていって,青柳さんのお話ではありませんが,要するに海外的になってきていることは確かです。
そういうことによって,技術者教育も非常にやりづらくなってきているという気がします。つまり私の年代が一番顕著で,お客様からは根性で頑張ってきなさいと言われて,自分のところの社員とか若い人たちに言うのは,根性論ではないけれども,なんだか知らないけどおもしろいからやってみろという,矛盾したようなことを指示しなければいけなくなってしまうということを常日ごろ悩んでいます。
そういったところは,どういったお考えをお持ちでしょうか。特にこれは小部さんにおうかがいしたいと思います。
小部 同じ悩みを持っています。私は47歳です。やはり35~36歳の社員,または新入社員は当然年代も違いますから,同じ悩みを持っています。しかし実はこういうことがつい最近ありました。当社はフィリピンで工場を建てています。よく社内公募というのをやります。フィリピンに行きたい人たちを社内公募しました。すると,24~25歳の女性が2人出てきました。いままでだったらフィリピンは非常に危険だ,危ないということで男性でもなかなか希望しません。ところが若い女性が出てくる。なぜ行くんだ。海外の工場にどんどん行って,海外と日本の間でお互いやりとりすると,どうも海外のいまの仕組みがうまくない。だから国内の人たちは困る。それであれば自分が行って困ったことを経験させたくないと思うのです。このような方々に刺激され,若い男性も自分も行きたいというかたちで出てきつつあります。
先ほど示しましたように,国内の工場はどうしても縮小していくと思います。そうすると海外にどんどん工場を作っていきますから,海外への派遣をローテーションを組みながら,社員全員が基本的に海外経験ができるというシステム作りをいまやろうとしている最中です。そういうものを経験しますと,また日本とは違った海外を見て,こういうように変わっていっているんだなと。そうすることによって,また1つの意識づけができるんじゃないかと思います。それがいまのわれわれの状況です。
一杉 いまの問題は,僕は過去においては非常に悩んでいました。というのはやはりすぐ状況が違ってしまいます。ですからそこに何の回答もいつも見つけられなかったんです。ある人間がこうしたいというので,それをやるかやらないかの決断だけをして進んでいって,まずかったら,今度は勇気を持って戻ろう。うまくいったらそのまま進もう。私の場合は過去もいまもあまり企業論を持っていませんので,いつもある意味では成り行きです。成り行きで全体として決定的にぶっ壊れてしまわなければいいんじゃないかと思っています。
これは企業としてでもあり,あるいは私自身の生き方でもあります。個人としても,なんとなく大きな流れにはどう逆らってもしょうがないだろう。ある日,どこか目の前にポッとチャンスが来たり,あるいは何かの障害が来たりする。そのときそれをつかむかつかまないか。あるいは障害をはねのけるか,飛び越すか。そのとき考えればいいんじゃないかという気がするんですが,どうでしょう。
青柳 僕はたぶん答えは難しいと思うので,こういう説明をさせていただきます。2つあります。まず1点は,ビジネスのうえでジェネレーションギャップそのほかの話と,個人的なところでお答えします。まず上の方の精神論は一度経験するべきだろうと個人的に考えます。ですから個人的なレベルで何度か飲みに行くなり何なりして,説明すると思います。ただし会社として判断するときは,極力それを抜きます。
といいますのが,たまたま私どもの性格上,海外とのやりとりが多いので,そのジェネレーションギャップ自体が,海外と日本のジェネレーションギャップの質が違うんです。ですから極力精神論,そのほかを抜きにして,仕事のプロの集まりとして,プロジェクトを進める。その中でどう技術者は動いていかなければいけないか。そういうところの判断だけしか,僕はやりません。ジェネレーションギャップをどう詰めていこうかという会社の中の話は,極力システム的にとるような方法を模索しています。それが仕事に反映されるようでは,これからたぶん海外といろいろ進めていく中では難しいだろう。ですから仕事の運営の中に反映されないような経営システムを作っていくというところが僕のビジネスとしての答えです。
福田 われわれのような会社に来る人は,やっぱりどこか何か欠点の1つくらいはあるという人たちを取りまとめていかなければいけない。そういった状況でも機械的にといいますか,そのへんをクールにやっていくことは可能なんでしょうか。
青柳 機械的というと非常に難しいんですが,例えば開発の手段はいろいろな発想から構想を練って,いろいろ開発していく。これは義理人情でできるものではないわけです。確かにスケジュール的な問題で,早くやってくれ,それはなんとかお前,今日残ってやってよというところはあります。ただし1つのプロジェクトの進め方は,僕たちの対象物ですけれども,ジェネレーションギャップを話すようなものではなくて,回路の中の例えばこういう設計がいいのか悪いのか,これは経験を持っている方と若い人の討論はあります。ですからそこはYes・Noの判断でやれるところだと思っています。極力判断はYes・Noの判断をしていかないと,よろしくお願いしますという非常に中途半端なかたちでエンジニアを教育していくのは間違いだと思います。だめなものはだめ,いいものはいいという判断を極力していく。そのためにはなるべく義理人情を抜いていってあげなければいけない。
ただ個人的にはたくさんいます。ただ経営者としてやらなければいけないところは,なるべくYes・Noの判断が明確に出せるかたちのシステムを作っていってあげないといけないという意味です。
一杉 いまのジェネレーションギャップの問題なんですが,あらゆる人間は自分が中心です。私からみれば,仮に私の親兄弟であっても,要するに私に対してジェネレーションギャップを持っているわけです。ですからそれを埋めようとしたって無理じゃないですか。いま青柳さんもおっしゃったことですが,目の前に迫ったあるものに対して,YesかNoか,ということですよね。それに対して,素直に成功は成功として認めよう,失敗は失敗として認めようということでなければ無理だと思います。実際に会社の中ではジェネレーションギャップとは別にポジションギャップがついてくるわけですから。
見城 こういうコメントをさせていただきます。先ほどの青柳さんのお話の中のインターナショナルな考えです。アメリカなんかはそうなんだけれども,従業員かそうでないかというよりも,自分が何かを持っていて,これをいくらで売るという,1人ひとりが経営者になるという考えが大事のようです。エンジニアでいえばスキル,自分が売れる技術を持っていなければいけない。そういうふうに自分を育て,周りもそれを期待する。そういう意味だとしますと,インテリジェンスというか,プロとしての能力があるということは非常に大事なことのように思います。
一方,最近EQ(エモーショナルクオーシャント)ということが非常に言われるということも聞いております。私はこのへんはちょっと聞いてみたいと思います。小部さん,その点どうですか。
小部 最近,われわれの会社もここまで大きくなってきますと,外部から入って来られる方が非常に多いです。新聞でも発表していますが,銀行の役員まで勤めた方が入社したり,自動車メー力の事業部長や製造部長を勤めた方々が入社してきます。経験豊富で優秀な方々がわれわれの日本電産に来ていただけます。そうすると日本電産のカルチャーと,外部におられた人たちのカルチャーに違いがあるわけです。いろいろな経験を積まれて,知識を積まれて,これらを日本電産で使うとすれば,なかなかうまくいきません。
ところがそういったものを全部いったん捨てて,日本電産に入社し,まったく一般の作業者として,例えば現場に入って,梱包作業からやるとか,あるいはもの作りを皆と一緒になってやるとか,このようなことを経験された方は早く日本電産のカルチャーに溶け込めるわけです。
すなわち優秀な方というのは,ある問題が起こったときに,これはこうしたらこういう失敗をするかもわからない,あるいはああしたらこう失敗をするかもしれない。先々がよく読めるのです。
すなわち頭で考えてしまうのです。ところがそうではなくて,まず環境がどうなっているんだ,あるいはその文化がどうなっているんだろうか。感情といいますか,感性といいますか,そういったことを身体で感知しながら一緒にやっていくのがEQの1つの例だと思います。すなわち優秀なだけでは会社はやっていけないし,また感性だけでも会社はやっていけません。まさに知識あるいは知恵,そういうIQのレベルも必要だし,またEQというか,感性,きれいなものを見たらきれいと思うEQも必要です。
始め会社を作った当初は,そんなことを考える余裕なんてありません。しかし会社が成長し,変わっていく過程において,感性と知識,知恵,すなわちEQとIQのバランスが非常に必要になってきている。また日本そのものがそういう状況に置かれているんじゃないかと思います。
学校の教育はどちらかというと,IQを高める,IQを求める教育がずっとなされてきています。しかしそういった方がベンチャー企業をやって成功するかというとそうではないと思います。だから学者だとか,評論家が企業を作って成功するかというとそうではなく,やはり優秀な方が,学者的な発想をしつつ周囲のいろいろな方々と付き合いができて,あるいは環境に順応できる力のある方すなわちバランスがとれた方が,これから求められると思います。
見城 EQという言葉ですが,日本経済新聞の10月15日の夕刊に,「これはアメリカで引き金になった」「IQ偏重に対して反省」なんて見出しが出ております。大変おもしろい問題に入ってきたんじゃないかと思います。
先ほどの話の中の頭のよさのことですが,先が見えて失敗が見えるという頭のよさと,もう1つは,よしこれができるぞ,これでブレークスルーができるぞという頭のよさ,これもほしいと思います。これは小部さん,どうなんでしょうか。先が見えて失敗が読めるのが頭がいいというのか。
小部 例えば何かプロジェクトをやろうとします。いろいろな経験を積まれた方は,ではこのプロジェクトをやるのにこれだけのお金がいる。これだけの設備がいる。これだけの時間がいる。これだけの人がいるといって,計画を作ってしまいます。ところが経験のない人は,とりあえずやってみよう。そして必要に応じて設備を入れようじゃないか,お金も使おうじゃないか。これがすなわち感性なんです。そういうことで日本電産そのものがいままで大手企業と戦ってきました。
そういう大手企業がわれわれがやってきたように,とにかくやってみようという精神でやってきたら,いまの日本電産はなかったんじゃないかと思います。逆にそういう経験を持っておられますと,先々の計画を作ってきちっとやってしまう。そのためにスピードが遅れるわけです。ところがわれわれの場合は,とりあえずなにはともあれやってみようじゃないかというところからスタートしましたから,非常にスピードが速かったということが,1つの成功の秘訣ではないかということです。
見城 最後に青柳さんから,明確に指摘していただきたいと思うんですが,プロフェッショナルなスキルというのは何なんだ。インテリジェンスではないのか。そうだろうと私は思っていたんですが,いかがなんでしょうか。
青柳 2種類あると思うんです。インテリジェンスを必要とされる技術者の方も必要です。短時間で決められたものを間違いなくやるというプロフェッションもあるんです。ただしクリエイティビティー,何かを創造していく能力も必要だと思います。ですから何か開発をするときに,これはもう時間が決まっている。じゃ,あいつに頼めばいい。彼はスペック,仕様書さえ出せば,決まった時間にちゃんとやる。これもなくてはならない技術ですし,逆に何もないところから,こういうものをやりたい,そういうものをなんらかのかたちで作るという創造性も必要だろう。両方だと思うんです。
見城 エンジニアの教育,EQとかIQ,創造性,チームワークでやること,契約制の問題,そのほかもっともっとおもしろい問題が大変多いと思います。今日は大変有益なディスカスをこういうかたちでさせていただき,いま大変おもしろいところに入ってきたところですが,残念ながら時間がまいりましたので,シンポジウムは終わらせていただきたいと思います。(拍手)
本稿は,第4回職業能力開発研究発表講演会のシンポジウムの録音から編集しました。