• 沖縄職業能カ開発短期大学校長  具志 幸昌

戦火に巻き込まれた人たちが,難民キャンプに収容され,暫くして,従前に住んでいた市町村に戻ることができたとき,アメリカ軍は戦略的拠点を占拠して居座っており(アメリカ軍基地の始まり),多くの人々が元住んでいた場所に戻ることができなかった。これが沖縄の人たちが「違った道」を歩む始まりであった。アメリカ軍は基地と基地とを結ぶ道路網を同時に整備したが,その中の4車線の1号線(国道58号)をはじめとする幹線道路は,暫くの間沖縄の自慢ともなっていた。その後日本国内も高速道路網が精力的に整備されていき,復帰のときには1号線はむしろ色あせた存在になっていた。米軍により半ば強権的に実施された各種道賂の拡幅は,自動車交通時代の到来とともに長く役立つ結果となっている。戦前,船でしか行き来ができなかった沖縄本島北部地域に,占領時代,曲がりなりにも一周道路が建設されて,陸の孤島苦を解消した。この一周道路は復帰記念事業として再整備されている。

「違った道」の1つに,鉄道がある。戦前県営の軽便鉄道が那覇を起点にして3路線走っていたが,戦火を受けた後,枕木や軌条は家庭の燃料や住居の建設に利用されてしまった。鉄道を重視しないアメリカの政策もあって,鉄道の復旧は見送られ,鉄道の路線は道路に造り変えられてしまって,今日に至っている。そして,沖縄県は鉄道のない唯一の都道府県になってしまっている。

沖縄本島の人口密集地域には公共下水道が整備されているが,これは「小児麻痺」の流行が原動力となっている。小児麻痺が世界的に流行したとき,住民やアメリカ軍の兵隊の中にも発生した。アメリカ上院の議員団が視察に来沖し,「下水道の建設」を勧告していった。予防のため基地内だけでなく,基地周辺の市町村も下水道を整備すべしということになり,早速翌年のアメリカ議会の予算に計上され,分配されて,那覇市や沖縄本島中部の基地周辺の市町村で下水道の建設が始まった。この援助はその後も続き,復帰の時点では,沖縄県は下水道普及率では先進県となっていた。

「違った道」には,鉄筋コンクリート(RC)造の建物の普及も存在する。戦火で壊滅した建物は,アメリカ軍のテントに始まり,やや落ち着いてから,アメリカ軍支給の米松を主体とする「2×4」工法による学校校舎や一般住居の建設が多数行われた。米松は白蟻が好んで食べ,さらに,当時,毎年頻繁に来襲する大型台風によって木造建物は寿命が著しく短くなっていた。沖縄付近では速度が遅いため台風は一晩中吹きまくり,建物を揺さぶり,住民はまんじりともせずに恐怖の一夜を過ごしていた。これは自然発生的にRC造住宅の建設につながっていった。那覇市の広報によると,1961年に,建築確認申請で件数・坪数ともにRC造が木造を凌駕している。これが都市の不燃化をもたらし,現在那覇市をはじめ沖縄県の市町村は理想的な防火都市を形成している。

戦争の結果,心ならずも歩まされた異民族支配という「違った道」は,熱心に行った人権回復のための復帰運動の結果,解消し,日本国民として「同じ道」を歩くことができるようになった。状況はいろいろと改善(格差是正)されてきているが,「違った道」の中で最重要な課題である米軍基地の問題は未解決のまま残されている。

ぐし ゆきまさ

ぐし ゆきまさ
ぐし ゆきまさ

略歴

昭和29年 東京工業大学建築学科卒,31年修士
昭和31年 琉球大学専任講師,35年助教授,45年教授
附属図書館長,工学部長を歴任,工学博士
平成6年  琉球大学定年退職,名誉教授
平成7年  4月より現職

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