• 職業能力開発大学校  田中 萬年

1.はじめに

宗像元介先生は半導体ガラスの研究者であったが,成瀬政男職業訓練大学校初代校長に請われて昭和42年に赴任され,職業訓練研究センターの初代所長を昭和53年から4年間勤められ退職された。そして亡くなる直前まで職業訓練に関する思索に没頭された。したがって,ガラスの研究よりも職業訓練の研究の期間が長いことになる。この間に多数の職業訓練に関する論文を発表された。公表されたなかで,「公共職業訓練の意義に関する一試論」という論文は,現在日本労働研究機構で進められている職業訓練に関する「リーディングス」に転載,公刊されることになっている注1)。

先生は平成7年9月に亡くなられたが,生前に公刊された著書は『胡麻豆腐』(平成5年刊)と『菖蒲湯』(平成7年刊)の2冊の句集であった。そのなかで,われわれの願いにもかかわらず,

けっきょくは書けぬ自分史十三夜

と詠まれて職業訓練の論集執筆に取り組まれなかったが,その意図はわからない。先生の意に反するかもしれないと思いながらも,しかし,後進の学ぶべき素材の宝庫である先生の論文をまとめて公刊することは有意義と考え,早川宗八郎職業能力開発大学校長に刊行会代表になっていただいたのが標記の『職人と現代産業』である注2)。このように書名を『職人と現代産業』としたのは,晩年の宗像先生に何度かお逢いしてお話をうかがった際,「技能」および「職人」という言葉が頻繁に飛び出し,これらのことを大変に気にしておられていたからである。

職人とは一般には伝統的職種に携わっている熟達した作業者のことを指しているが,本書ではそうではなく,書名に記した現代産業において生産に携わっている技能労働者のことである。それらの技能労働者に伝統的職人と同様な対応が期待されているという問題意識に基づくものである。つまり,理解困難な現代の産業のなかでのモノ作り(生産)にかかわっている労働者の問題として論じられているのである。それは職業訓練の重要な課題でもある。

本書を木村誠静岡大学助教授は「魅力的なタイトルである。……第一部は職人研究を基底にすえた真正面から斬る「技能論」にほかならないし,第二部は現代産業のなかでも職業訓練の意義を人間一人ひとりの持つ職人性という観点を十分にふまえて論じている点で,『職人と現代産業』とのタイトルはこのうえなく正鵠を得ている」と評している注3)。

先生は職業訓練の訓練内容として無視することができない「技能」の理論化を,

晩学や己が水影打つ鯖蛉

と詠んで退職後から始められた。従来の技術・技能論にはなかった職業訓練にとって不可欠の「モノ作り」からの技術・技能論を構築された。そして病との闘いのなかで「技能論」を執筆し終えると,

終稿を渡せしその手涅槃吹く

と詠まれた。この句を見ていると「技能論」の執筆に命をかけられていたということがわかる。

2.実技・実習カリキュラムの意義

実技・実習のカリキュラムを無視することは職業訓練の否定につながる。そのため,かつて小生も実技の有効性を論じたことがある注4)。つまり,学科のみよりも実技・実習を関連させて訓練するほうが,訓練生の実力がより向上するということを論じた。しかし,そこでは実技・実習カリキュラムのそれ以上の意義についてまでは論じ得ず,実技・実習のカリキュラムとしての有効性を一般化し得なかった。そのときは,訓練の対象者が中卒者であったため,実技訓練が理論教授中心の工業高校に劣らないということを論じたにすぎなかった。ましてや,実技・実習の現代社会における意義については観点さえ浮かばなかった。

教育・訓練内容として実技・実習が果たす重要な意味についてはいくつか指摘できる。あるラジオ番組で聴いた次のようなことは,よく知られたことである。

「大企業の技術者が創意工夫した真の創造的な研究開発というものはあまりない。なぜかというと,大学出の技術者は理論を頼りにする,つまり教科書をモデルにして物事を考えるから理論以上の創造的なことを開発できない。しかし,中小企業で苦労した経営者や現場技能者などが創造的な開発をしていることがある。中小企業では理論も教科書もない。あるのはモノ作りの経験のみである。その体験のなかから理論にも教科書にもない「可能性」を見いだし,工夫し,創造的な開発につないでいる。その開発した技術を大企業が買い上げたり,模倣している例は枚挙にいとまがない」。

モノ作りの経験は教育でいえば実技・実習であり,理論化されていないこと,教科書にないことを実技・実習を通して体験させる意味はここにある。

2~3年前に能開大1年生の企業内教育見学会に同行したときの学生と卒業生とのやりとりは印象深かった。ある学生がその企業に就職していた先輩に「職業能力開発大学校で一番役立ったことは何ですか」と聞くと,その先輩は「実習です」と答えた。1年生は意外と思ったのであろう,「なぜですか」と再質問した。「実習をやったお陰で製品を作っていく全体のイメージが湧いてくるので,部分の仕事をしていてもどうすればよいかがわかる。実習を経験していない他の大学の卒業生は大変なようです」との答えであった。“なるほど”と思わされた。そのような全体のイメージがなければ決して創造性は生まれないだろうと思うからである。実習の役割はここにもあった。

日本の公共職業訓練施設でモノ作りの実技・実習が減り,まして一昔前の中心だった手作業の実技・実習は極端に少ない。理由は実技・実習のカリキュラム編成が困難になってきたことに一因がある。これに比べると学科のカリキュラム編成がいかに単純かは説明する要はないだろう。しかし,日本でも意識的な訓練をしている企業の職業能力開発短期大学校等の訓練施設では,割合としては昔よりも減ってはいるが,依然として実技・実習は重視されているのである。

数年前,ある企業内短大を見学した際,そこの教務課長の言葉は印象深かった。「先端の高度なことを教えるのは簡単だ。しかし,基礎的なことを教えるのはきわめて困難である」。

実習場を見学してそこでも手作業から始まり,汎用機械の実技・実習を重視していることは直ぐわかり,小生の「それでは基礎的なことを教えるのにどのように対応しているのですか?」の質問に,その課長の回答は「一人前に基礎的なことを担当できるためには,指導員として10年ほどの経験を必要とする」であった。ここに,実技・実習カリキュラムの展開のための教材の開発,指導の体系化の困難なことが言い表されている。これは情報化のもとでの訓練が,「いわゆる高度」な訓練よりも基礎的な訓練,言いかえれば技能に関する訓練の指導が困難であることの証言である。

大企業の企業内訓練が手作業に始まる実技・実習を重視していることは,ドイツの職業訓練の実技・実習が今でも手作業を重視していることと相通じるものがある。ME化を発展させることができるのもモノ作りの経験の過程があればこそである。また,裏返せば手仕事でモノ作りが十分にできない者には,ME化の機器を使いこなせないことになるのである。これは企業の現場指導者のアンケートにも明確に表れている。

実技・実習の意義は教育心理学からも説明できる。よく知られる「具体から抽象へ」という理論が実践できるのである。「実習を通しての理論化」,あるいは「実学融合」という教育方法は,職業訓練の場においてのみ可能である。

しかし,実技・実習としてのカリキュラム編成の重要性はわかっていても,その意義の理論化が確立していない現在,困難がつきまとうのは当然であり,その内容としての技能を若い職業訓練指導員諸氏が敬遠するのもうなずけるのである。

3.実技・実習の内容としての技能

公共職業訓練施設の実技・実習の割合が減少しつつあり,その意義が軽視ないし無視されつつあることは,実技・実習のカリキュラムが技能の訓練であるという暗黙の理解があるからではなかろうか。そして,その技能に関する誤った理解が,現在の技術革新のもとで実技・実習を敬遠する遠因になっていると推測される。

では,その「技能」に関する誤った理解はいつから始まったのであろうか。私見によれば,それは昭和33年の「職業訓練法」に始まった注5)。例えば「技能」を昭和33年法では「経験修練によって得られる『うで』をいう」と定義し,「職業訓練法」はそのような技能を訓練することを主たる目的と規定していたが,このような定義であれば今日のME化・情報化社会のカリキュラムとしては当然賛同を得ることは困難になる。上の規定はすでに昭和44年法以降は法律的にはないのであるが,しかし今もなお世の中の人々だけではなく,職業訓練に携わっている管理者,職業訓練指導員の心の中にも根強く固着している。このことは「技能」の誤った理解が払拭されず,それを除去する理論がいまだ確立していなかったことを物語っている。

そのような「技能」観が時代にマッチしなくなってきたため,「職業訓練」を「職業能力開発」という言葉に拡大・移行することにより政策として切り抜けようとしても,職業能力開発の中核が依然として職業訓練であるため,技能に関する共通認識に解決がついていない間は,関係者はいつまでも心の片隅に古い技能観を内在させたまま,技能に関する“わだかまり”を持っているのではなかろうか。

退職後から技能の研究を始められた宗像先生は,職業訓練関係者,特に指導員諸氏がそのように悩んでいる間は職業訓練の発展がないと考えられたに違いない。職業訓練を展開するために理論となる技能論の確立が不可欠なのである。その点を先生のご指摘を引用させていただいて考えてみたい。

特に,わが国の職業訓練の特徴として「職業訓練法」は,受講者である訓練の対象者としての労働者よりも,訓練の「内容において自己主張せざるをえ なくなった」(154頁)のであった。訓練内容として「技能」を強調する必然性があったとすれば,「技能」の理論化は最も重要なはずであるにもかかわらず,わが国では深まってこなかったのは各位の周知するところであろう注7)。「本論はその問題の重大さを指摘するささやかな試みである。この試みが若い諸君によって深められ,技能訓練に携わる方々の士気の鼓舞に役立つことを願っている」(72頁)と述べて,後進に期待をかけておられるのである。

技能の理論化は単に職業訓練の展開にとってばかりではなく,現在の「教育」に欠落しているものを明らかにするうえでも有効である。例えば,「知育偏重」への批判はよく聞くが,その批判の基盤となる理論が生まれたことを知らない。それは,技能論であり,実技・実習カリキュラムの理論化であるということに気づかされた。木村誠氏が「……今後の教育・訓練に不可欠な宗像路線をいかに着実に進めるかが,先生の心から期待されているところでもあろう」と評していることにもそのことを読み取ることができる。

4.宗像「技能論」の特徴

宗像先生の技能論の特徴を筆者なりに次の4点に整理させていただいた。

4.1 理論と実践の一体化としての技能論

宗像先生の俳句の師である成田千空先生は,宗像元介先生の句を「客観と主観の一体化に工夫がある」と評されておられる。この評価は俳句だけではなく宗像先生の職業訓練研究の姿勢であり,技能研究の視座でもあった。この評を「理論と実践の一体化」と読み替えて考えてみよう。

プレス工業短大の大野氏の紹介によると,宗像先生は神奈川県職業訓練審議会会長を務められながらビル清掃の仕事をパートさんたちとともに体験し,その体験から,技能は働く人のいるところに存在することを提言されていたという注7)。このように技能の問題を単なる机上の空論で終わらせず,実践的に理論化されたのであった。「理論と実践の統一」を地で行っておられた話である。これは後に紹介するように,技能の理論化そのものにも応用されている。

4.2 現代産業における技術のとらえ方

現代の科学・技能を説明する言葉として,一般的には「技術は科学の応用である」とする説明があり,日本の技術革新や経済成長を説明する多くの論はこの立場である。しかし,技術は科学の応用であるという「一樹理論」だけでは,今日の日本の実情を説明することは困難とする。

例えば,この論ではノーベル賞の多い国のほうが技術も進み,経済的にも発展していなければならないが,アメリカだけでなく,イギリスやロシア等を説明できないとする。科学はそのまま生産技術の開発には直結しないと主張する。また,その見方は科学が技術の上にあるとする近代産業社会的見方であり,歴史的にみても科学と技術とはそのように一方的な上下関係で発達してきたのではないとする。

そのような論に対比して「労働の知識化」が重要な要因として注目される。つまり,モノ作りの経験からの体系化もあるとして,このことの確認の重要性を指摘している。例えば,わが国の火力発電や製鉄が世界に先駆けてコンピュータ化に成功したことにみるように,技術進歩は労働者の経験の集積から生まれたとする。またLSI等の改良も作業現場の労働者の工夫に拠っていることなどが少なくなく,このような例は枚挙にいとまがないとする。

4.3 既存の「技術・技能論」と宗像技能論

従来,「技能」に関しては主として「技術論」の中で論じられてきた。その代表的な論は「手段体系説」と「意識的適用説」である。前者は,「技術とは労働手段(機械)の体系のことで客観的な存在であるが,技能は主観的な能力だから技術とは別であり,労働力の属性である」とする論である。一方後者は,「技術とは生産の場で客観的法則性(例えば自然科学の法則)を意識的に適用することだが,技能は個人の熟練で獲得される能力のことだから主観的・個人的・心理的であり技術ではない」とする論である。宗像論では,これらはいずれも前提として技術と技能を区別している近代的産業の立場であるとする。つまり,その「技術」の見方はそれが「労働」の外にあるとしており,それは近代産業が発達した後の「産業社会的技術観」だとする。換言すれば,技術と技能が共存しているとする論であるとする。

そして技術の進歩は職人の経験の蓄積から生まれたのは当然であるとして,その変化の整理の観点が問題となる。技術の進展は労働の熟練化と不熟練化との二極分解や,無人化をもたらすとする論だけでは十分ではないとする。それは分業の見方の問題でもある。このような観点からの技術・技能論ではなく,これからの教育・訓練のためには,単純な「産業社会的技術観」とは異なった論の展開が求められるところである。

つまり,職業訓練を展開するための技術論が必要となる。それは技能者養成の前提として「モノ作り」の視座が必要となる。それは「技術」と「技能」の協同であるとする論になる。それらは個人の中で一体的に遂行されるから「融合型」とされる。その「融合型」は近代産業社会で一般化された先の二つの論ではないとする。

技術の客観的な面が道具や機械であり,主観的な面が技能とする。かくして技術は主観的・客観的な統一として成り立つとしている。換言すれば,道具や機械と離れたところに技能はなく,また,これまで言われているような技術は単独ではない,ということであろう。先に紹介した「客観と主観の統一」の技能論版である。このような技術・技能観は有史以来,人間とともに発達してきたのであり,今日の産業の中にも多くを認めることが可能であるとする。

したがって,この論は先の二つの論に対置した新たな論となる。これを「人間的技術観」であるとしている。そして,「人間的技術観」は「産業社会的技術観」より“広く見る見方”であるとしている。

それでは既存の「技能」そのものは何か,ということになる。技能は「熟練で蓄積される情報とそれに基づく判断である」とする。その情報と判断は,換言すれば「知的能力としての技能」という見方になり,技術と同質である,ということになる。その「情報」は理論から派生する情報とは異なった経験から得た情報であるが,情報として同等ということであろう。この両者の情報が有機的に関係づけられたところに,真の「モノ作り」が可能になるといえる。現代産業においては,今日ではそのウエイトとして理論からのものが多く必要とされるというだけである。

この見方に立てば,管理技術も披能のうちであり,このことはわが国の企業が特に成功しているQC・ZD・作業改善等の活動を現場の労働者が推進していることをみれば当然といえよう。

また,技能には情報というだけではなく「感性」的な側面もあるとする。感性とは「習熟によって身につく能力」であるとする。したがって,“知る”営みはデジタルだが,“作る”それはアナログにしか実現できないことになる。つまり,知識や理論は正否であり二者択一だが,実技・実習の成果は“巧みさ”と“拙さ”という二者択一で判断できないものであるという趣旨である。この指摘は,職人の養成や職業訓練,技術教育とその評価がきわめて困難である要因を的確に表している名言といえる。

そのように技能には二面性があることが技能をわかりにくくしているのである。しかし,例えば「光」は波と粒子の二面性により理論化されているように,技能の性格にも二面性があるという整理は宗像技能論の新発見だといえよう。

4.4 宗像技能論が今目の実技・実習カリキュラムの理論として有効な理由

これまで実技・実習のための技能に関して明確な理論はなかったといえよう。すなわち,これまでの「修練」論は今後のME化社会では支持されない。 しかし,職業能力開発施設における実技・実習を展開する理論として,宗像技能論は心強い支援をしてくれるといえる。

第一に技能を「技術(理論)」と等価とみることである。技能を技術の従属物とはみないだけではなく,技能は技術へも発展するとみる。第二に,技能はどのような仕掛け(システム)のモノ作り(仕事)であっても,その中に必ずあるとみて,技能は決して,なくならないとみる。したがってその教育・訓練はきわめて重要な内容となる。第三に,モノ作りは「同じものを作る」ことはできないとする。このことが正否や正誤ではなく,巧い,拙いという困難な評価を求められることになる。しかし,それは技能の本質であるということを確信すべきことを示唆してくれた。第四に,「モノ」の中には3次元で現わされる有形の物だけではなく,動作等の「形」や「ソフト」も含まれるとする。第五に,技術は部分の技術ですむが,技能は部分ではすまなく,全体のシステムをとらえる能力として重要であるとしている。

このように,宗像技能論は,これまで我々が確信を持てなかった実技・実習や技能についての自信を持たせてくれる。

5.おわりに

読者にはすでにおわかりのように,「宗像技能論」の立場に立てば本来,技能を「技能」として単独に論ずることはその論に反することになるが,ここでは社会慣行に沿ってその言葉を用いた。

バブル崩壊以後の産業の再編成のもとで,この技能や職人のあり方,あるいは今後のわが国における生産方法の伝承のあり方に危倶を抱いている人が出てきた注8)。このようなことは,高度経済成長の時期には省みられなかったことであった。当時は技能や職人の仕事はすべてME化で置き換えられるという技術(工学)への過信が,技術者にも国民にもあったためだと思われる。

しかし,ちょっと考えてみればすぐわかることであるが,最先端の機器はけっしてロボットでは作れないのである。精密な工作機械の平面加工は最終的には熟練した技能者の手作業にかかっているというのが現実である。CAD・CAMで作成したものでもそのまま製品にできるものは少なく,多くはその後に熟練工が手作業で加工し,調整しているという話は多い。その手加工こそ技能の集積した能力である。この例が,マツダの「徒弟制度」の制度化であろう注9)。今後もわが国が生き延びていくためには,著者のいう“モノ作り”(生産)を除いてはあり得ないことを考えれば,技能論の重要性が認識されるべきである。

教育・訓練は,かつてオイルショックの際に即効性がないために軽視された。そのため,技術・技能の伝承が断絶し教育訓練の重要性が反省されたにもかかわらず,先のバブルでもその反省は生かされなかった。それがようやく再び注目され始めている。つまり,産業の空洞化現象の一段落で,それをよく見てみるとやはり「熟練を要する技能は海外では受け入れられない」注10)ということがある。単に賃金の安い労働力を求めるだけでは解決できないことなのである。

これらのことは裏返せば,どのような時代にも教育・訓練にこそ日本の生きる道があるということになる。そして労働能力を高めるためには,実技・実習は欠かせないのである。三度目の過ちを繰り返さないためにも,技能とその養成のあり方を今度こそ真剣にとらえなければならないのではなかろうか。そのための豊富な示唆を『職人と現代産業』は与えてくれる注11)。

本稿では筆者が特に考えさせられた実技・実習カリキュラムの考え方について筆者なりの紹介をさせていただいたが,ぜひ各位で味読し,各位の実践を理論化していただきたい。

〈注〉

  1. 1) 宗像元介先生の足跡と,職業訓練界へのご貢献は,拙稿「宗像先生のご逝去を悼む」,『産業教育学研究第26巻第1号』,1996年1月をご参照いただきたい。
  2. 2) 宗像元介『職人と現代産業』,技術と人間,四六版・303頁,2500円+税,1996年10月刊。
    全体の構成は本誌2号に太田公夫氏の紹介があるのでご参照いただきたい。
    近くの書店にない場合は,宗像元介論集刊行会で取り扱っていますので次にお尋ねください。
    TEL 0427-63-2764
  3. 3) 木村誠「図書紹介」,『産業教育学研究第27巻第1号』,1997年1月。
  4. 4) 拙稿「実技訓練の有効性」,『雇用促進』,1975年10月等で報告した。
  5. 5) 拙稿「公共職業補導と企業内技能者養成の統合の論理と課題」,『職業能力開発研究第14巻』1996年3月をご参照いただきたい。
  6. 6) 例外的に,森和夫『ハイテク時代の技能労働』中央職業能力開発協会,平成7年がある。
  7. 7) 大野信行「図書案内」,『能力開発』,1997年1月号。
  8. 8) 労働省の調査によれば,「品質低下,製品製造の困難化といった直接的影響」が大きいという。中川裕雄「技能の継承における問題点と今後の課題,施策について」,『研究開発マネジメント』,1997年1月号参照。
  9. 9) 『朝日新聞』「『徒弟制度』やはり必要? マツダ,工場に導入」,平成8年9月4日朝刊。
  10. 10) 佐々木恭造「座談会 ハイテクと職人芸の接点」,『TRiggER』,1997年2月号参照。
  11. 11) 例えば,ある職業能力開発短期大学校の管理者から「学生を見る視点としても重要なものがある」と感想をいただいた。
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