「凡庸な教師はただしゃべる。よい教師は説明する。すぐれた教師は自らやって見せる。そして偉大な教師は心に火をつける。」
これはある本で見かけたことばである。西欧の賢人のことばらしいが,詳しい出典は知らない。
人間はこの世に生を享ければ,生涯のさまざまなステージで,学び,教えられるとともに,自分が教える立場に立たされる。学校の教師であればもちろんのことだが,職場でも,家庭でも,趣味のグループでも,自分では意識しなくても,その役割がまわってくる。
「人さまに教えるなんて。わたしはなんでも教えてもらうばかりですよ。」というのは謙遜のようだが,利己的と見られても仕方がないし,それは結局自分の世界を狭くする。まがりなりにも教えることによって,かえって教えられるというのは,われわれが日常経験することだ。教えられた知識,技術,経験をほかの人に伝達することによって,人と人との心のふれあいが生まれ,新たな世界が広がる。ビジネスの世界でも情報,技術の公開が企業の長期的な発展につながると,最近は考えられているようだ。
では,どんな教え方がよいのだろうか。職業訓練の技術強力で開発途上国の現場で活躍されたある人が,協力の終わったプロジェクトの現場を再訪したとき,自分が教えたとおりやっているのを見て,がっかりした,という話を聞いて,なるほどと思った。教えたとおりやっているならば,技術協力としては合格点以上ではないか。しかし,その人の期待はそれ以上であった。つまりカウンターパートの人々が自分たちの教えたことをもとにして,自ら創意工夫を加え,新しい技術の導入にも積極的に取り組む,といったことであろう。
それには,教えられる側の意欲と努力も欠くことができない。もし,それが備わっているなら教える側が少々凡庸でも,相手がそれ以上のものを吸収するということも起こりうるかもしれない。いや,極端な場合は「あんなになってはいけない」というような反面教師の役割を教える側がすることもあるだろう。
しかし,それは結果論であって,仮にも自分が教える側の役割をするようになったときは,相手になんとか分かってもらいたい,自分のものを受け継ぐだけでなく,自らの力を養って新しいものにもチャレンジしてほしい,と願い,どうしたらそれを教えられるだろうか,と思い脳む。
そんなとき,冒頭のことばは,ひとつのヒントを与えてくれる。
われわれの大部分は,相手をよく理解もせず,一方的なおしゃべりをするような凡庸な教え手であるが,せめて相手によくわかるように説明し,自らやって見せる程度には努力したいと思う。
相手の心に火をつける,というのは,むつかしく考えると,凡人には達することのできないレベルかもしれないが,一所懸命教えることに心をくだいているなら,自分が知らないうちに,あるときは長い期間かかって,あるときは瞬間的に,起こることがあるのではないだろうか。
ひとつの出会い,ひとつのことばが相手の心に火をつけ,生涯を変えることがある。
やました ひろし
1975年 在タイ日本大使館一等書記官
1991年 静岡労働基準局長
1992年 ILO東京支局次長
1995年 現職